「源行家」(みなもとのゆきいえ)は、平安時代後期に活躍した武将。鎌倉幕府初代鎌倉殿「源頼朝」の叔父にあたる人物で、「以仁王」(もちひとおう)が打倒平家を掲げて令旨を出した際には、それを各地の源氏へ伝えるために全国を渡り歩きました。2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で源行家を演じたのは人気俳優の「杉本哲太」(すぎもとてった)さん。杉本哲太さんは源行家を演じるにあたり、「うさんくささを突き詰めていきたい」とコメントしたことで話題となりました。源行家とは、どのような人物だったのか、史実における源行家の生涯をご紹介します。
1180年(治承4年)8月、「以仁王」(もちひとおう)が「打倒平氏」の令旨を発令した際、「摂津源氏」の「源頼政」(みなもとのよりまさ)に命じられてこれを全国の源氏に届けたのが源行家です。このとき、源行家は山伏(やまぶし:山中で修行を行う修験道[しゅげんどう]の指導者)に変装して全国を回り、源頼朝のもとへも山伏姿で訪れています。
源行家から令旨を受け取った源頼朝は、平氏を倒すために挙兵。なお、源行家の変装による全国行脚は返って目立ってしまっていました。その結果、「以仁王が挙兵を企てている」という情報は、平氏派と源氏派に二分していた熊野三山を統括する「熊野別当」のひとり「湛増」(たんぞう)に勘付かれることになり、これが原因で以仁王はのちに討死することになったと言われています。
以仁王の令旨を全国の源氏へ伝えた源行家は、そののち、源頼朝の軍勢には入らず、独立した勢力として三河国(現在の愛知県東部)や美濃国(現在の岐阜県南部)で活動しました。
1181年(養和元年)、源頼朝が鎌倉で都を作っていた頃、源行家は東国に進軍した平氏軍を迎撃するために尾張国(現在の愛知県西部)で挙兵。岐阜県大垣市墨俣町(すのまたちょう)付近を流れる墨俣川(すのまたがわ:現在の長良川)で、源頼朝の異母弟である「義円」(ぎえん)とともに、「平清盛」の五男「平重衡」(たいらのしげひら)と対峙します。
「墨俣川の戦い」と呼ばれるこの戦いで、源行家の軍勢は約5,000。対して平氏軍は30,000の軍勢を率いており、両軍の兵力差は明らかでした。それでも合戦を強行した結果、源行家は大敗。この戦いで甥の義円は討死。源行家は生き延びて、源頼朝の支配圏となっていた相模国松田(現在の神奈川県足柄上郡松田町付近)に住み着きます。
源行家はそのあとも、全国各地に赴いて平氏を倒すために決起を促し続け、あるとき、源頼朝にその労いの見返りとして所領を要求。ところが、源頼朝がこれを拒否したため、以降、源行家は源頼朝と対立することに。
なお、源頼朝が源行家に所領を与えなかった理由としては、源行家のことを「戦下手であるにもかかわらず、無謀な合戦を引き起こす、口先だけの人物」と見なしていたためではないかと言われています。
源頼朝と対立した源行家は、源頼朝と従兄弟の関係にあった木曽義仲のもとへと向かいました。1184年(寿永3年)木曽義仲の入京に伴って源行家もこれに同行。
木曽義仲は京を治めようとしましたが、山村育ちであったことが仇となり、公卿などから嫌われて京の支配に失敗。反対に、源行家は持ち前の処世術で京の人びとから好かれることに成功します。そして、これをきっかけに源行家と木曽義仲の間に溝ができ、徐々に仲が悪くなっていきました。
源行家は身の危険を感じ、平氏の討伐を理由に京を脱出。しかし、その先で平氏軍と合戦をすることになり、結果は敗走。さらに、木曽義仲から派遣された追討軍に狙われ、またもや敗戦を喫します。
1184年(寿永3年)正月、源頼朝が木曽義仲に対して追討を命令。これにしたがって源頼朝の異母弟「源範頼」(みなもとののりより)と「源義経」(みなもとのよしつね)が京へと進軍し、同年1月、木曽義仲は討ち取られます。
木曽義仲がいなくなったことで、源行家は帰京を果たして「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)に仕えつつ、源義経に接近。源行家はこの時点で、平氏討伐には一切参加しておらず、独立勢力として和泉国(現在の大阪府南西部)と河内国(現在の大阪府南東部)を支配しました。そして、この行動が源行家の行く末を大きく変えることになります。
1185年(元暦2年)3月、「壇ノ浦の戦い」によってついに平氏は滅亡。「源平合戦」(治承・寿永の戦い)が終わったことで平穏な日々が訪れたと思われましたが、同年8月、源行家は源義経と親しくしていたことや、独自の勢力を持っていたことで、源頼朝から反乱分子と見なされて討伐の対象にされるのです。
1185年(元暦2年)10月、焦った源行家は源義経とともに、後白河天皇へ「源頼朝の追討」の院宣を要求しますが、源行家達に味方する武士団はほとんどいませんでした。
同年11月、源頼朝が大軍を率いて上洛の動きを見せると、源行家は源義経とともに都を落ちます。移動した先で追討軍と戦いながら逃亡を続けていましたが、その最中に源義経と離れ、源行家は次第に追い込まれていきました。
追っ手から逃げるために源行家が潜伏したのは、和泉国日根郡近木郷(現在の大阪府貝塚市畠中)で在庁官人(ざいちょうかんにん/ざいちょうかんじん:現地で役所の実務に従事した地方官僚)を務めていた「日向権守清実」(ひゅうがのごんのかみきよざね)の屋敷。
ここで源行家は約半年を過ごしますが、翌年の1186年(文治2年)5月、地元民から鎌倉へ「謀反人の源行家がいる」と密告され、鎌倉幕府初代執権「北条時政」(ほうじょうときまさ)の甥(または従弟か弟)とされる「北条時定」(ほうじょうときさだ)の手により捕まってしまいます。
1186年(文治2年)6月1日、源行家は山城国赤井河原(現在の京都市伏見区淀樋爪町付近)で、自身の長男「源光家」(みなもとのみついえ)や次男「源行頼」(みなもとのゆきより)とともに斬首され、その生涯を閉じました。