13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物

源行家(みなもとのゆきいえ)
/ホームメイト

源行家(みなもとのゆきいえ) 源行家(みなもとのゆきいえ)
文字サイズ

「源行家」(みなもとのゆきいえ)は、平安時代後期に活躍した武将。鎌倉幕府初代鎌倉殿「源頼朝」の叔父にあたる人物で、「以仁王」(もちひとおう)が打倒平家を掲げて令旨を出した際には、それを各地の源氏へ伝えるために全国を渡り歩きました。2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で源行家を演じたのは人気俳優の「杉本哲太」(すぎもとてった)さん。杉本哲太さんは源行家を演じるにあたり、「うさんくささを突き詰めていきたい」とコメントしたことで話題となりました。源行家とは、どのような人物だったのか、史実における源行家の生涯をご紹介します。

源行家とは

源行家

源行家

「源行家」(みなもとのゆきいえ)は、1141年(永治元年)または1143年(康治2年)に、「河内源氏」の5代「源為義」(みなもとのためよし)の十男として誕生。

兄弟には、鎌倉幕府初代鎌倉殿「源頼朝」の父「源義朝」(みなもとのよしとも)や、「木曽義仲/源義仲」(きそよしなか/みなもとのよしなか)の父「源義賢」(みなもとのよしかた)らがいます。

1159年(平治元年)12月に起きた「平治の乱」のあと、和歌山県新宮市の「熊野新宮」(現在の熊野速玉大社[くまのはやたまたいしゃ])で育ったことから、当時は「新宮十郎」(しんぐうじゅうろう)と呼ばれていました。

全国の源氏へ「打倒平氏」を伝えるために行脚

1180年(治承4年)8月、「以仁王」(もちひとおう)が「打倒平氏」の令旨を発令した際、「摂津源氏」の「源頼政」(みなもとのよりまさ)に命じられてこれを全国の源氏に届けたのが源行家です。このとき、源行家は山伏(やまぶし:山中で修行を行う修験道[しゅげんどう]の指導者)に変装して全国を回り、源頼朝のもとへも山伏姿で訪れています。

源行家から令旨を受け取った源頼朝は、平氏を倒すために挙兵。なお、源行家の変装による全国行脚は返って目立ってしまっていました。その結果、「以仁王が挙兵を企てている」という情報は、平氏派と源氏派に二分していた熊野三山を統括する「熊野別当」のひとり「湛増」(たんぞう)に勘付かれることになり、これが原因で以仁王はのちに討死することになったと言われています。

墨俣川の戦い

以仁王の令旨を全国の源氏へ伝えた源行家は、そののち、源頼朝の軍勢には入らず、独立した勢力として三河国(現在の愛知県東部)や美濃国(現在の岐阜県南部)で活動しました。

1181年(養和元年)、源頼朝が鎌倉で都を作っていた頃、源行家は東国に進軍した平氏軍を迎撃するために尾張国(現在の愛知県西部)で挙兵。岐阜県大垣市墨俣町(すのまたちょう)付近を流れる墨俣川(すのまたがわ:現在の長良川)で、源頼朝の異母弟である「義円」(ぎえん)とともに、「平清盛」の五男「平重衡」(たいらのしげひら)と対峙します。

墨俣川の戦い」と呼ばれるこの戦いで、源行家の軍勢は約5,000。対して平氏軍は30,000の軍勢を率いており、両軍の兵力差は明らかでした。それでも合戦を強行した結果、源行家は大敗。この戦いで甥の義円は討死。源行家は生き延びて、源頼朝の支配圏となっていた相模国松田(現在の神奈川県足柄上郡松田町付近)に住み着きます。

源行家はそのあとも、全国各地に赴いて平氏を倒すために決起を促し続け、あるとき、源頼朝にその労いの見返りとして所領を要求。ところが、源頼朝がこれを拒否したため、以降、源行家は源頼朝と対立することに。

なお、源頼朝が源行家に所領を与えなかった理由としては、源行家のことを「戦下手であるにもかかわらず、無謀な合戦を引き起こす、口先だけの人物」と見なしていたためではないかと言われています。

源行家の晩年

木曽義仲との対立

木曽義仲

木曽義仲

源頼朝と対立した源行家は、源頼朝と従兄弟の関係にあった木曽義仲のもとへと向かいました。1184年(寿永3年)木曽義仲の入京に伴って源行家もこれに同行。

木曽義仲は京を治めようとしましたが、山村育ちであったことが仇となり、公卿などから嫌われて京の支配に失敗。反対に、源行家は持ち前の処世術で京の人びとから好かれることに成功します。そして、これをきっかけに源行家と木曽義仲の間に溝ができ、徐々に仲が悪くなっていきました。

源行家は身の危険を感じ、平氏の討伐を理由に京を脱出。しかし、その先で平氏軍と合戦をすることになり、結果は敗走。さらに、木曽義仲から派遣された追討軍に狙われ、またもや敗戦を喫します。

1184年(寿永3年)正月、源頼朝が木曽義仲に対して追討を命令。これにしたがって源頼朝の異母弟「源範頼」(みなもとののりより)と「源義経」(みなもとのよしつね)が京へと進軍し、同年1月、木曽義仲は討ち取られます。

木曽義仲がいなくなったことで、源行家は帰京を果たして「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)に仕えつつ、源義経に接近。源行家はこの時点で、平氏討伐には一切参加しておらず、独立勢力として和泉国(現在の大阪府南西部)と河内国(現在の大阪府南東部)を支配しました。そして、この行動が源行家の行く末を大きく変えることになります。

源行家の最期

1185年(元暦2年)3月、「壇ノ浦の戦い」によってついに平氏は滅亡。「源平合戦」(治承・寿永の戦い)が終わったことで平穏な日々が訪れたと思われましたが、同年8月、源行家は源義経と親しくしていたことや、独自の勢力を持っていたことで、源頼朝から反乱分子と見なされて討伐の対象にされるのです。

1185年(元暦2年)10月、焦った源行家は源義経とともに、後白河天皇へ「源頼朝の追討」の院宣を要求しますが、源行家達に味方する武士団はほとんどいませんでした。

同年11月、源頼朝が大軍を率いて上洛の動きを見せると、源行家は源義経とともに都を落ちます。移動した先で追討軍と戦いながら逃亡を続けていましたが、その最中に源義経と離れ、源行家は次第に追い込まれていきました。

追っ手から逃げるために源行家が潜伏したのは、和泉国日根郡近木郷(現在の大阪府貝塚市畠中)で在庁官人(ざいちょうかんにん/ざいちょうかんじん:現地で役所の実務に従事した地方官僚)を務めていた「日向権守清実」(ひゅうがのごんのかみきよざね)の屋敷。

ここで源行家は約半年を過ごしますが、翌年の1186年(文治2年)5月、地元民から鎌倉へ「謀反人の源行家がいる」と密告され、鎌倉幕府初代執権北条時政」(ほうじょうときまさ)の甥(または従弟か弟)とされる「北条時定」(ほうじょうときさだ)の手により捕まってしまいます。

1186年(文治2年)6月1日、源行家は山城国赤井河原(現在の京都市伏見区淀樋爪町付近)で、自身の長男「源光家」(みなもとのみついえ)や次男「源行頼」(みなもとのゆきより)とともに斬首され、その生涯を閉じました。

源行家(みなもとのゆきいえ)
SNSでシェアする

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物」
の記事を読む


北条朝時

北条朝時
北条家の系譜のひとつに名越流(なごえりゅう)北条氏があり、得宗(とくそう:北条一族の惣領)北条氏と対立していました。名越流の祖となるのが鎌倉幕府2代執権「北条義時」(ほうじょうよしとき)の子「北条朝時」(ほうじょうともとき)。北条氏が執権として力を付けて勢い増すなか、11歳で正室であった母を失い、後継ぎの座も側室の子である兄に奪われてしまいます。北条朝時が北条氏の一員として生きながらも、反対勢力を形成していった経緯やその生涯、兄弟との関係や現代に伝わる逸話について見ていきましょう。

北条朝時

木曽義仲(源義仲)

木曽義仲(源義仲)
「木曽義仲」(きそよしなか)は、平安時代末期の武将で、平氏から源氏の時代へと変わる転換期に平氏と戦った人物です。そして「源義経」(みなもとのよしつね)と鎌倉幕府を開いた「源頼朝」(みなもとのよりとも)とは親戚関係にあります。木曽義仲は、源義経と源頼朝らよりも先に、平氏を追い詰め、上洛を果たすなど、源平合戦「治承・寿永の戦い」で華々しく活躍。ここでは木曽義仲の歴史を追い、そのゆかりの地について紐解いていきます。 源義仲と巴御前源義仲と巴御前の人となりと、互いを大切に想う2人の関係性についてご紹介します。

木曽義仲(源義仲)

平清盛

平清盛
「平清盛」(たいらのきよもり)は、平安時代末期の貴族社会の中、伊勢平氏の家系に生まれます。当時、武士の身分は政治を司る貴族よりもずっと低く、何をするにも不利なことばかりでした。それでも平清盛は身を立てようと懸命に働き「保元の乱」や「平治の乱」では勝利を収め、武士としては初めての太政大臣に昇格するなど、目覚ましい活躍を見せます。そして興味を持っていた宋との貿易「日宋貿易」で日本国内の経済基盤を整えました。ここでは、平清盛の生涯とかかわってきた出来事についてご紹介します。 平治物語絵巻 六波羅行幸巻 写し YouTube動画 平清盛平清盛が主人公の大河ドラマ「平清盛」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。 新・平家物語平清盛が主人公の大河ドラマ「新・平家物語」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。

平清盛

以仁王

以仁王
平安時代末期、6年もの間にわたって続いた「源平合戦」の口火を切ったのは、各地に散らばる源氏を蜂起させ、平氏追討の命を下した「以仁王の令旨」(もちひとおうのりょうじ)です。この追討令を発した以仁王とはいったいどのような人物なのでしょうか。ここでは、源平合戦のきっかけとなった「以仁王」という人物の紹介と、皇族であった以仁王が武士である源氏と手を組み、当時の平氏政権に反旗を翻した理由とその影響について見ていきましょう。

以仁王

平宗盛

平宗盛
「平宗盛」(たいらのむねもり)は、「平清盛」(たいらのきよもり)の三男として誕生した人物です。父・平清盛の「保元の乱」や「平治の乱」での活躍に伴い、平宗盛や平氏一門で昇進し栄耀栄華を極めるようになります。父の死後は平宗盛が棟梁となりますが、源氏に追われ都落ちをし、戦にも負け続けるなど険しい道のりでした。平氏を滅亡の最後まで背負った平宗盛とはどんな人物だったのでしょうか。ここでは平宗盛の生涯やその評価、墓の場所などについてご紹介します。

平宗盛

源範頼

源範頼
「鎌倉幕府」初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)が、日本中を巻き込んで、異母弟「源義経」(みなもとのよしつね)と壮大な「兄弟げんか」を繰り広げていたことはよく知られています。しかし、実はもうひとりの異母弟「源範頼」(みなもとののりより)もまた、源頼朝に謀反の疑いをかけられ、悲劇的な最期を迎えていたのです。「源氏」一門として鎌倉幕府における重要な地位を占めていた源範頼が、母親が異なるとは言え、血を分けた兄弟である源頼朝によって命を奪われるまでに至った背景について、その生涯を紐解きながらご説明します。

源範頼

北条宗時

北条宗時
「北条宗時」(ほうじょうむねとき)は、2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する平安時代後期の武将です。演じるのは歌舞伎役者で俳優・舞踏家でもある「6代・片岡愛之助」(ろくだい・かたおかあいのすけ)さん。「坂東彌十郎」(ばんどうやじゅうろう)さん演じる鎌倉幕府初代執権「北条時政」(ほうじょうときまさ)の嫡男であり、2代執権となる「北条義時」(ほうじょうよしとき:演・小栗旬[おぐりしゅん]さん)の兄にあたります。「源頼朝」(演:大泉洋[おおいずみよう]さん)を旗頭に、平家打倒を掲げた北条氏の嫡男として重要な立場にあったものの、その出生や最期については謎の多い北条宗時。どのような人物であったのかを探っていきます。

北条宗時

九条兼実

九条兼実
九条兼実は平安時代末期から鎌倉時代にかけての政治家で、平安末期を知る上での一級資料「玉葉」を記した人物です。五摂家のひとつ「九条家」の祖で、後白河法皇や平氏、源氏に翻弄されながらも、正しい政治体制を採ろうとした厳格さを持ちます。源頼朝と与し、将軍宣下を下した九条兼実がどのような人物なのか見ていきましょう。

九条兼実

北条政子

北条政子
鎌倉幕府を創立した将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の正室として知られる「北条政子」(ほうじょうまさこ)。2022年(令和4年)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役「北条義時」(ほうじょうよしとき)の姉でもある北条政子は、夫・源頼朝亡きあと、その情熱的な性格で、鎌倉幕府のさらなる発展のために尽力しました。北条政子の負けん気の強さが窺えるエピソードを交えてその生涯を追いながら、尼将軍・北条政子が、鎌倉幕府でどのような役割を果たしたのかについてもご説明します。

北条政子

注目ワード
注目ワード