伊豆国(現在の静岡県南部)出身で、北条氏とのゆかりが深い「仁田忠常」(にったただつね)。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、仁田忠常役を笑顔が印象的でありながら勇猛果敢な武士という人物像で、お笑いコンビ・ティモンディの「高岸宏行」(たかぎしひろゆき)さんが演じています。父母や子孫など、パーソナルデータの詳細が分かっていない人物ですが、仁田忠常の生涯とその有名なエピソードを紹介します。
「仁田忠常」(にったただつね)は、1167年(仁安2年)、北条氏の本拠地に近い、伊豆国仁田郷(現在の静岡県田方郡函南町)に誕生した人物です。
史料には「新田」や「日田」とも記されており、1180年(治承4年)に「源頼朝」が挙兵をしてからは源氏軍の武士として戦い、数々の武功を立てました。1189年(文治5年)の「奥州合戦」においても戦功を挙げ、源頼朝からの厚い信任を得ています。
源頼朝の死後は、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の信任を得て、嫡男「一幡」(いちまん)の乳母父(めのと:父母に代わり、子供を養育する男性)のひとりに選ばれました。
仁田忠常は、1203年(建仁3年)に「比企能員の変」(ひきよしかずのへん)が起きると、ゆかりの深い「北条時政」(ほうじょうときまさ)の命により、「13人の合議制」のひとりで、主君・源頼家の外戚である「比企能員」(ひきよしかず)を暗殺。一方で、その3日後に源頼家から北条時政討伐の命を受けます。
そのような状況のなかで、仁田忠常は翌晩、北条時政邸へ比企能員追討の褒賞を受け取るために出向。しかし、このとき仁田忠常の帰りが遅いことをいぶかしんだ仁田忠常の兄弟により、北条時政の息子「北条義時」(ほうじょうよしとき)の館が襲撃されてしまいます。これにより、仁田忠常本人は謀反の疑いを掛けられ、北条時政邸から帰る途中、北条氏の差し金により誅殺されてしまいました。
静岡県田方郡函南町仁田には、仁田忠常の館跡と墓が存在。現在も子孫を称する人々によって守られています。
仁田忠常のエピソードのなかで有名なのが、日本三大仇討ちのひとつ「曽我兄弟の仇討ち」(そがきょうだいのあだうち)における、「富士の巻狩り」(ふじのまきがり)で起こった出来事です。
富士の巻狩りとは、1193年(建久4年)の5~6月にかけて、源頼朝が御家人を集めて行った大規模な巻狩り(まきがり:中世に遊興や神事、軍事訓練などのために行われた狩猟の一種)のこと。伝記物語「曽我物語」では、この巻狩りで源頼朝に突進した大猪を、随行していた仁田忠常が刀で突き刺して撃退したとされます。
そのあと、仇討ちを果たした「曽我祐成」(そがすけなり)と「曽我時致」(そがときむね)兄弟により源頼朝の寝所が襲撃されており、控えていた仁田忠常が兄・曽我祐成を討取りました。
もうひとつの仁田忠常の有名なエピソードが、洞窟のなかで怪異に出会ったというエピソードです。源頼家が富士の狩場へ赴いた際、「人穴」(ひとあな)と呼ばれる溶岩洞窟を発見。仁田忠常はこの人穴の探索を命じられることとなり、源頼家から刀を預かり、5人の部下を連れて探索へ乗り出します。
人穴の中は方向転換もできないほど狭く、足元には水が流れ、何千・何万匹のコウモリが飛び交うなか、仁田忠常達は松明の光を頼りに先へ先へと進んでいきました。行きついた先には流れの速い荒れた川が流れており、向こう岸に光るものを見たと思った途端、部下達は死亡してしまったと言います。何かが自分に語り掛けるのを聞いた仁田忠常は、言われるがまま源頼家の刀を放り投げ、人穴を脱出。戻る頃には出発してから日をまたぎ、深夜になっていたと言います。
人穴は「浅間菩薩」(せんげんぼさつ:富士信仰における神様)が住む場所であったことから、鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)には、この出来事はとても恐れ多く、無礼な行いだったという記述が存在。これにより、源頼家や仁田忠常は祟られ、間もなく亡くなってしまったとされているのです。