『丹下左膳』でその名を残す林不忘(はやしふぼう)。『丹下左膳』は時代小説(大衆文学)全体が人気ジャンルとなっていく中で依頼を受けて執筆されました。林が生みだした大小一対の妖刀のアイデアは現在まで多くの後発作品に受け継がれています。
エッセイ・現代物、探偵小説・翻訳、髷物と筆名を使い分けた長谷川海太郎は、林不忘の筆名で髷物(まげもの)を書きました。
不忘は、髷物の短編「寛永相合傘」(1927年『文藝春秋』初出)で、尾州家江戸詰めの藩士・安斎十郎兵衛と寺中甚吾左衛門の様々な競争心を描きます。江戸時代前期、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の時代、幼馴染の2人は「刀剣眼利の会」でも競い合います。ある一刀を巡って、鎌倉時代に山城国で興った粟田口派か、平安時代に備中国で興った青江物かで論争します。
「安斎、粟田口だな。」
「ふうむ。粟田口かな。」
と腕を組んだ安斎十郎兵衛、感心したのかと思うと、そうではない。
「なるほど。言わるるとおり乱れは乱れじゃが、ちと逆心が見える。拙者の観るところ、どうも青江物じゃな、これは。」
「しかし――。」
甚吾左衛門が口をとんがらせる。
「しかし――。」
と十郎兵衛も負けてはいない。が、一歩譲る気になって、
「しかし――何じゃ?」
「しかし」甚吾がつづける。「しかし、刃文と言い、さまで古からぬ切れ込みのあんばいと言い、何とあってもここは粟田口、しかも国光あたりと踏むが、まず格好と存ずる。」
「寛永相合傘」より
不忘名義では、『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』(1927~1928年『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』連載)でその名が広く知られていきます。『サンデー毎日』の編集長・千葉亀雄から依頼されての執筆でした。邑井貞吉の講談『大岡政談 鈴川源十郎』を下敷きに、「新講談」と謳い、妖刀争奪を創作しました。
江戸時代中期、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の時代、日本刀を溺愛し収集する相馬中村藩の藩主・相馬大膳亮は、家臣の丹下左膳にある指令を出します。
室町時代に美濃国の関を拠点とした刀工・兼元(屋号:孫六)最後の作とされる大小一対の妖刀・乾雲丸と坤竜丸を手に入れよという物でした。
乾雲、坤竜の二刀、まことに天下の逸品には相違ない。だが、この刀がそれほど高名なのは、べつに因縁があるのだと人はいいあった。
ほかでもないというのは。
二つの刀が同じ場所に納まっているあいだは無事だが、一朝乾雲と坤竜が所を異にすると、凶の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈、恐ろしい渦を巻き起こさずにはおかないというのだ。
『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』
乾雲丸と坤竜丸は、江戸で神変夢想流の町道場を開く小野塚鉄斎の家宝となっていました。左膳は、隻眼隻手のハンディキャップをもろともしない腕前で、剣客・鉄斎を打ち倒し、大刀・乾雲丸のみ奪うことになります。
無頼の旗本・鈴川源十郎邸に身を寄せる左膳は当初脇役だったものの嵐寛寿郎(嵐長三郎)や大河内伝次郎らの主演で主人公として映画化されるなど人気を博し、単行本時には『丹下左膳』として発売されることになりました。
左膳と栄三郎の争いには、刀工・兼元(屋号:孫六)の末裔という得印兼光も加わります。先祖が作った乾雲丸と坤竜丸が持つ不思議な力の秘密を知りたいと言う思いからでした。
「刀剣眼利の会」や妖刀の争奪を描いた不忘。不忘にとって刀剣は、競争心を駆り立てる物でした。