上杉謙信を描いた『天と地と』を執筆した海音寺潮五郎(かいおんじちょうごろう)。ノンフィクションを目指す史伝に重きを置きました。リアリズムを重んじる海音寺はやがて愛刀家にもなっていきます。
海音寺潮五郎は、中学校の教師として国語・漢文を教えながら小説の執筆を続け、第5回『サンデー毎日』大衆文芸賞の当選を機に作家を専業とします。直木三十五賞の第1回候補に名を連ね、第3回直木三十五賞の受賞者となりました。
その後、戦中・戦後の検閲に苦しんだ経験から武家時代以前の「王朝物」を主題にし、『平将門』(1954~1957年『産業経済新聞』『産経時事』断続連載)の執筆へ至ります。海音寺初の3年に亘る新聞連載となりました。
同作では、軍記物語『将門記』を基本書とし、関東の豪族・平小次郎将門が新皇を名乗り朝廷に討ちとられる(承平天慶の乱)までの生涯を、組織立った剣法・剣術以前の世界観の中で描きました。
しかし、首領は逃げる形を取らなかった。抜きはなった刀を真向にふりかざし、真一文字に小次郎をめがけて走りかかって来た。
「あっぱれ!」
小次郎は感嘆した。こんな勇敢な敵には、たとえ賊であっても、弓矢で迎えるべきではないと思った。ちゅうちょなく弓をすて、やなぐいをかなぐりすて、刀をぬいて走り向かった。
『平将門』より
海音寺は数多くの史伝を執筆します。『武将列伝』、『日本名城伝』、『悪人列伝』、『列藩騒動録』、『幕末動乱の男たち』などを残しました。
『武将列伝』では、悪源太義平、平清盛、源頼朝、木曽義仲、源義経、楠木正成、足利尊氏、楠木正儀、北条早雲、斎藤道三、毛利元就、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、大友義鎮/宗麟、山中鹿介幸盛、明智光秀、武田勝頼、竹中半兵衛(重治)、前田利家、黒田官兵衛(孝高/如水)、蒲生氏郷、真田昌幸、長宗我部元親、伊達政宗、石田三成、加藤清正、立花一族(立花道雪・高橋紹運・立花宗茂)、真田幸村(信繁)、徳川家光、西郷隆盛、勝海舟を取り上げました。
『日本名城伝』では、熊本城、高知城、姫路城、大阪城(大坂城)、岐阜城、名古屋城、富山城、小田原城、江戸城、会津若松城(鶴ヶ城)、仙台城(青葉城)、五稜郭を順に取り上げました。
編集者が武将を選択した『武将列伝』で越後国の武将・上杉謙信がもれたことが心残りだった海音寺は、謙信を主人公とし『天と地と』(1960~1962年『週刊朝日』連載)を執筆します。謙信の出生から上杉政虎と名乗り、武田信玄と長きに亘る川中島の戦い(第4次)までを描きました。
海音寺は、軍学書『甲陽軍鑑』をもとにし、川中島の合戦をこう描きました。
「信玄坊主め! 今日こそ勝負を決するぞ。おれの首をわたすか、うぬの首をとるか、二つに一つだ!……」
短刀をぬいて、冑のしのびの緒を切り、ぬいで、ざんぶと犀川の淵に投げこみ、具足の引合せの間から引出した白練の絹で、行人づつみに頭と顔をつつみ、二尺七寸五分、備前長船の住兼光の佩刀をぬき、刀にかつぎ、片手ぐりに手綱をとり、まっしぐらに信玄の旗本に向って駆けた。
『天と地と』
『天と地と』では、謙信が長尾景虎と名乗っていた頃に上洛した際、正親町天皇から粟田口吉光(通称・籐四郎)作の五虎退を拝領したできごとや、室町幕府第13代将軍・足利義輝の幕臣・大館兵部少輔藤安から備前長船兼光の返礼など、日本刀に触れています。
海音寺は日本刀を愛好し、豊後国高田の刀工一派・長盛や肥前国の刀工・近江大掾藤原忠吉(4代)などを手に入れており、刀剣について随筆や史伝も記しました。
『実説武侠伝』(1962年 新潮社)収録の「正宗」では、明治時代に湧き出た正宗不在説を否定。同じく収録の「村正」では、江戸時代に講談や歌舞伎で広まった村正の妖刀伝説を否定しました。
『日本の名匠』(1975年 中央公論社)収録の「名匠伝」では、刀鍛冶師を紹介します。長曽禰興里(虎徹)、山浦清麿(源清麿)、埋忠明寿とその弟子の肥前忠吉、堀川国広と弟子の和泉守国貞と河内守国助、国貞の弟子・井上真改、国助の弟子・ソボロ助広、越前康継ら「新刀」に分類される江戸時代以降。昭和に活躍した宮入行平(昭平)を取り上げました。
その後、海音寺は、石坂浩二主演で『天と地と』がNHK大河ドラマの第7作目となったことを機に引退宣言(1969年)。以前から執筆を続けていた海音寺の故郷の名士・西郷隆盛の史伝・時代小説に生涯取り組み、薩摩藩がご流儀とした剣術・示現流も取り上げました。
日本刀を愛した海音寺は、生涯に亘って刀剣の世界を描いたのです。