「新選組/新撰組」の一番隊隊長として知られる「沖田総司」(おきたそうじ)。
1844年(天保15年/弘化元年)白河藩(現在の福島県)藩士「沖田勝次郎」(おきたかつじろう)のもとに生まれましたが、父は沖田総司がわずか2歳の頃に亡くなっています。
そのあと、沖田総司は、剣術の新流派「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)を学ぶために、新撰組のメンバー「近藤勇」(こんどういさみ)の養父であった「近藤周助」(こんどうしゅうすけ)に弟子入り。
修行を積んで、同流派の道場「試衛館」(しえいかん)の塾頭を務めるほど優れた剣技の持ち主となった沖田総司は、「天才的剣士」と称されるようになったのです。
1863年(文久3年)に近藤勇や「土方歳三」(ひじかたとしぞう)らと共に上洛を果たし、新撰組に加盟した沖田総司は、その幹部として大きな活躍を見せていました。
しかし、1868年(慶応4年/明治元年)に勃発し、他の新撰組メンバーが従軍した「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)には、肺病のために不参加となったのです。
沖田総司は同合戦後、江戸で療養生活を送っていました。しかし、1868年(慶応4年/明治元年)4月に、千駄ヶ谷(現在の東京都渋谷区)の植木屋・平五郎宅の納屋で亡くなったと伝えられています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1844年(天保15年/ 弘化元年) |
1歳 |
沖田勝次郎の嫡男として生まれる。
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1863年(文久3年) | 20歳 | |
1864年(文久4年/ 元治元年) |
21歳 | |
1865年(元治2年/ 慶応元年) |
22歳 |
脱走した新撰組総長・山南敬助(やまなみ/さんなんけいすけ)を追跡して捕らえる。その切腹の際には介錯を務めた。
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1868年(慶応4年/ 明治元年) |
25歳 |
前年頃に発症した肺病の療養のため江戸に向かう。そのあと、千駄ヶ谷にて病没する。
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