江戸時代末期の幕臣として、江戸無血開城という大きな功績を残した「勝海舟」(かつかいしゅう)。
1845年(弘化2年)頃より、福岡藩士「永井青崖」(ながいせいがい)のもとで蘭学を学んだあと、兵学、及び蘭学を教える私塾「氷解塾」(ひょうかいじゅく)を開いています。
そして勝海舟は、江戸幕府が設立した「長崎海軍伝習所」に1期生として入所。1860年(安政7年/万延元年)には遣米特派使節に「咸臨丸」(かんりんまる)で随行し、同船の艦長を務めたのです。
アメリカから帰国すると、勝海舟は「軍艦奉行並」に就任します。さらには、自身の弟子であった「坂本龍馬/坂本竜馬」らの助けを得て、「神戸海軍操練所」を開設。海軍軍人の育成に注力しました。
1868年(慶応4年/明治元年)に「陸軍総裁」に任命された勝海舟は、西郷隆盛との間で江戸城開城の協定を結び、大政奉還によって政権が朝廷に返上されたあとも、明治新政府と徳川将軍家の仲介役として、その手腕を発揮。
明治政府の成立以降、「海軍大輔」(かいぐんたいふ)や「参議兼海軍卿」、「外務大杼」(がいむたいじょう)などの重要ポストを歴任しました。
1899年(明治32年)に勝海舟は自宅にて病死。その際、「これでおしまい」との言葉を残して亡くなったという逸話が良く知られています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1823年(文政6年) | 1歳 | |
1829年(文政12年) | 7歳 | |
1838年(天保9年) | 16歳 |
父の隠居に伴い、勝家の家督を継ぐ。
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1850年(嘉永3年) | 28歳 |
私塾・氷解塾を開く。
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1853年(嘉永6年) | 31歳 |
アメリカよりペリー率いる黒船が江戸湾・浦賀港に来航。開国を要求される。
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1854年(嘉永7年/ 安政元年) |
32歳 |
海防意見書を提出。これによって才能を見出された勝海舟は、江戸幕府の「目付海防掛」(めつけかいぼうがかり)に抜擢された。
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1860年(安政7年/ 万延元年) |
38歳 |
艦長として自身で操縦した咸臨丸で太平洋を横断し、アメリカ・サンフランシスコへ渡る。太平洋の横断は、日本人初の偉業であった。
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1864年(文久4年/ 元治元年) |
42歳 |
神戸海軍操練所を開設する。
そのあと、軍艦奉行に任命される。 |
1868年(慶応4年/ 明治元年) |
46歳 | |
1872年(明治5年) | 50歳 |
海軍大輔、及び海軍卿に就任する。
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1873年(明治6年) | 51歳 |
参議兼海軍卿に就任する(翌年8月に辞任)。
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1887年(明治20年) | 65歳 |
伯爵に叙される。
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1899年(明治32年) | 77歳 |
脳溢血(のういっけつ)により、自宅で亡くなる。
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