歴史人の生涯

坂上田村麻呂の武将・歴史人年表
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坂上田村麻呂

坂上田村麻呂

「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)は、平安時代初期に活躍した武将です。50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)が行っていた事業のひとつである蝦夷(えみし/えぞ)討伐において、その優れた武勇を存分に発揮しました。

791年(延暦10年)に坂上田村麻呂は、「征東副使」(せいとうふくし)に任ぜられています。

そして794年(延暦13年)には、征夷大将軍「大伴弟麻呂」(おおとものおとまろ)の軍勢に加わり、蝦夷を討つことに成功したのです。

そのあと、坂上田村麻呂は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)の「按察使兼陸奥守」(あぜちけんむつのかみ)や「鎮守府将軍」(ちんじゅふしょうぐん)を歴任。

そして797年(延暦16年)には、遂に征夷大将軍にまで上り詰めます。801年(延暦20年)に3度目となる蝦夷討伐を実行。

その翌年には「胆沢城」(いさわじょう:岩手県奥州市)を築き、当時の軍事機関であった「鎮守府」を同城に移したのです。

このように蝦夷の平定に大きく貢献した坂上田村麻呂は、810年(大同5年/弘仁元年)に起こった「薬子の変」(くすこのへん)の鎮圧でも武功を挙げ、「正三位・大納言」(しょうさんみ・だいなごん)に任ぜられました。

西暦(和暦) 年齢 出来事
758年(天平宝字2年) 1
坂上刈田麻呂(さかのうえのかりたまろ)の子として誕生。
787年(延暦6年) 30
「近衛少将」(このえだいしょう)に任命される。
791年(延暦10年) 34
多治比浜成(たじひのはまなり)らと共に、「征東副使」(せいとうふくし)のひとりに任命される。
793年(延暦12年) 36
「征東使」の名称が「征夷使」(せいいし)に改められる。
794年(延暦13年) 37
蝦夷を討伐する。
796年(延暦15年) 39
出羽国の按察使と陸奥守を兼任する。さらに鎮守府将軍をかねる。
797年(延暦16年) 40
桓武天皇より征夷大将軍に任命される。
801年(延暦20年) 44
蝦夷最大の根拠地であった胆沢(いさわ:現在の岩手県奥州市)の攻略に成功する。
802年(延暦21年) 45
胆沢城を造営する。そのあと、降伏した蝦夷の首領2人を連れて平安京に戻り、処刑した。
803年(延暦22年) 46
志波城(しわじょう:岩手県盛岡市)を築く。
804年(延暦23年) 47
再び征夷大将軍の座に就く。
805年(延暦24年) 48
6月、参議に任命される。
10月、清水寺京都市東山区)の寺地(じち)を1面賜り、同寺を末永く坂上氏の私寺とすることを許可される。
811年(弘仁2年) 54
平安京郊外粟田(あわた:京都市左京区)の別宅で病死する。

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池田輝政の武将・歴史人年表

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池田輝政 「池田輝政」(いけだてるまさ)は1564年(永禄7年)に、「織田信長」の重臣「池田恒興」(いけだつねおき)の次男として、尾張国・清洲(現在の愛知県清須市)で誕生。 元服後、池田輝政は、「織田信長」のもとで近習(きんじゅ:主君の側近くに仕える者)となって働いています。 1579年(天正7年)、織田信長の家臣を務めていた「荒木村重」(あらきむらしげ)が反旗を翻し、「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)が勃発。同合戦に池田輝政は、父と共に参戦しています。 その翌年に、荒木村重が「花隈城」(はなくまじょう:神戸市中央区)に籠ったことで始まった「花隈城の戦い」において池田輝政は、荒木軍の武士5~6人を自身で討ち取ったことが高く評価され、織田信長より感状を授けられました。 そのあと、1582年(天正10年)の「本能寺の変」によって主君・織田信長が亡くなると、池田輝政は、「豊臣秀吉」に仕えることに。 「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)や「九州平定」(別称[九州征伐])、「小田原の役」(別称[小田原征伐])など、豊臣秀吉による主要な合戦の大半に参陣し、武功を重ねていったのです。 1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」において池田輝政は、「徳川家康」率いる東軍に従軍。同合戦での活躍によって池田輝政は、播磨国・姫路(現在の兵庫県姫路市)52万石を賜り、姫路藩初代藩主となったのです。 そして池田輝政は、1601年(慶長6年)より8年の歳月を掛けて、姫路城の大規模な改修を行いました。現在観られる姫路城の姿は、この大改修によってできあがったと考えられています。こうして池田輝政は、姫路藩における藩政の基礎を築き上げ、「西国の将軍」と称されるようになったのです。

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足利義満の武将・歴史人年表

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足利義満 室町幕府2代将軍「足利義詮」(あしかがよしあきら)の長男として生まれた「足利義満」(あしかがよしみつ)。1368年(正平23年/応安元年)に父が没したことにより、跡を継いで将軍職に就任しています。 しかし、この時の足利義満は11歳の少年であったため、管領(かんれい)の「細川頼之」(ほそかわよりゆき)の補佐を受けて幕政に携わったのです。 1391年(元中8年/明徳2年)、「山名氏清」(やまなうじきよ)ら「山名氏」が幕府に対し、「明徳の乱」(めいとくのらん)と呼ばれる反乱を起こしますが、幕府軍が勝利を収めます。 そして足利義満は、同乱の翌年に南北両朝の合体に成功。 1394年(明徳5年/応永元年)には、嫡男「足利義持」(あしかがよしもち)に将軍職を譲り、「太政大臣」(だじょうだいじん)に任官されました。 これは、足利義満が属した「清和源氏」(せいわげんじ)において、初めてのことだったと言われています。 そのあと、足利義満は、足利義持が将軍の座に就いてからも実権を握っていましたが、1395年(応永2年)には、太政大臣を辞任して出家。 また、1397年(応永4年)に足利義満は、京都の北山に「金閣寺」(京都市北区:別称鹿苑寺[ろくおんじ])を建立しました。さらには、能楽を保護するなど、いわゆる「北山文化」の形成にも貢献したのです。加えて足利義満は、1399年(応永6年)に起こった「応永の乱」(おうえいのらん)において、強力な守護大名であった「大内義弘」(おおうちよしひろ)らを討って、「大内氏」を滅ぼしています。 そして1404年(応永11年)には、500年以上も途絶えていた明(中国)との国交を回復。「勘合貿易」(かんごうぼうえき)と称される明との貿易を正式に開始しました。こうして足利義満は、室町幕府の最盛期を築き上げていったのです。

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楠木正成の武将・歴史人年表

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楠木正成 「楠木正成」(くすのきまさしげ)は、その出自には不明な点が多くありますが、一説によると、河内国(現在の大阪府東部)で栄えた豪族の家系に生まれたと言われています。 1331年(元徳3年/元弘元年)、96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)に召し出された楠木正成は、鎌倉幕府を討伐するために「赤坂城」(大阪府南河内郡)で挙兵。そのあと、「千早城」(大阪府南河内郡)を築いた楠木正成は、鎌倉幕府軍からの猛攻に耐えて籠城戦を繰り広げました。 これによって楠木正成は、諸国の反幕府勢力に蜂起を促したのです。赤坂城、及び千早城で挙げた武功が高く評価された楠木正成は、後醍醐天皇が始めた「建武の新政」のもとで、「河内守」(かわちのかみ)に任ぜられました。 さらに楠木正成は、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)・河内国(現在の大阪府東部)・和泉国(大阪府南西部)3ヵ国の守護職にも就いています。 1335年(建武2年)に楠木正成は、後醍醐天皇に反旗を翻した「足利尊氏」を九州に敗走させましたが、その翌年に再起した足利尊氏を摂津国湊川(現在の神戸市中央区、及び兵庫区)で迎え撃って敗死しました。

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松永久秀の武将・歴史人年表

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松永久秀 「松永久秀」(まつながひさひで)は、その出自に不明な点が多く、山城国(現在の京都府南部)、もしくは摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)出身であったと伝えられています。 当初は摂津国守護代「三好長慶」(みよしながよし)のもとで、右筆(ゆうひつ:文書や記録の作成を司った役職)として仕えていました。 そのあと、松永久秀は「弾正忠」(だんじょうちゅう)に任官し、和泉国(大阪府南西部)の堺代官を務めていたのです。 1559年(永禄2年)、大和国(現在の奈良県)に入った松永久秀は、「筒井順慶」(つついじゅんけい)が拠点としていた「筒井城」(奈良県大和郡山市)を陥落。翌年には「興福寺」(奈良県奈良市)勢力を破り、大和国を平定しました。 これ以降、同国において松永久秀は、「多聞山城」(たもんやまじょう:奈良県奈良市)や「信貴山城」(しぎさんじょう:奈良県生駒郡)などを築きます。 そして、松永久秀は「三好氏」の家老となって権勢を振るい、大和国を支配するようになったのです。 さらに松永久秀は、主君・三好長慶が1564年(永禄7年)に亡くなると、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)を殺害。 大和国を含む畿内にまで、その実権が及ぶ範囲を拡大しました。1567年(永禄10年)には、三好氏を主導していた「三好三人衆」、及び筒井順慶軍との間で「東大寺大仏殿の戦い」が勃発。 松永久秀は同合戦に勝利しますが、同寺の大仏殿は焼失してしまいました。そのあと、松永久秀は、上洛してきた織田信長の家臣となりますが、1572年(元亀3年)に謀反を起こし、15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)が統率していた「信長包囲網」に加わります。 しかし、1577年(天正5年)の「信貴山城の戦い」で、松永久秀は織田軍に追い詰められ、同城に火を放って自害。68歳で亡くなってしまったのです。

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新田義貞の武将・歴史人年表

新田義貞の武将・歴史人年表
新田義貞 「新田義貞」(にったよしさだ)はもともと、上野国(現在の群馬県)の豪族「新田氏」の惣領であった武将です。 1331年(元徳3年/元弘元年)に、96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の勢力と鎌倉幕府の間で「元弘の乱」(げんこうのらん)が勃発。 同乱で新田義貞は当初、鎌倉幕府方に付き、後醍醐天皇方の「楠木正成」(くすのきまさしげ)との包囲戦「千早城の戦い」(ちはやじょうのたたかい)に従軍しました。 しかし、その翌年に新田義貞は、同合戦の途中で帰国。その後、後醍醐天皇の皇子「護良親王」(もりよししんのう)の綸旨(りんじ:蔵人[くろうど]が天皇の意を奉じて発する命令文書)を受け、鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵します。 同幕府を裏切ることになった新田義貞でしたが、最終的には滅亡させることに成功。 この功績が高く評価された新田義貞は、後醍醐天皇による「建武の新政」(けんむのしんせい)下で、越後守(えちごのかみ)や上野介(こうずけのすけ)などを兼任。 同天皇から重用されるようになったのです。そのあと、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が建武政権に背くと、その討伐のために各地を転戦。 「箱根・竹ノ下の戦い」などに敗れた新田義貞は、後醍醐天皇の皇子「恒良親王」(つねよししんのう)、及び「尊良親王」(たかよししんのう)らを奉じて、北陸へと下りました。 「そして新田義貞は、1338年(延元3年/暦応元年)に「足利高経」(あしかがたかつね:別称斯波高経[しばたかつね])の軍勢と対立した「藤島の戦い」にて、戦死することとなったのです。

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朝倉教景の武将・歴史人年表

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朝倉教景 「朝倉教景」(あさくらのりかげ:法名[朝倉宗滴])は、越前国(現在の福井県北東部)の戦国大名「朝倉氏」の家臣として活躍した武将です。 越前国の守護大名「朝倉孝景」(あさくらたかかげ:法名[英林宗雄])の八男でしたが、通称が父と同じ「小太郎」であったこと、諱(いみな)である「教景」を曽祖父などが用いていたことから、嫡男としての待遇を受けていたのではないかと推測されています。 1503年(文亀3年)に、敦賀城(福井県敦賀市)城主「朝倉景豊」(あさくらかげとよ)が、仕えていた朝倉宗家に謀反を起こしました。 このときに朝倉教景は、朝倉景豊一派に加わることを求められましたが、それを断るために出家。そして、朝倉教景は主君・朝倉貞景に対し、朝倉景豊による謀反の企てを密告します。 この功績が認められ、朝倉景豊が務めていた「敦賀郡司」の座に就くことになりました。朝倉教景はこれ以降、朝倉氏の軍務を仕切っていくことになったのです。 1506年(永正3年)には、朝倉氏と北陸一向衆の間で「九頭竜川の戦い」(くずりゅうがわのたたかい)が勃発します。 朝倉教景は、朝倉軍の総大将となって激戦を繰り広げ、最終的には夜襲を掛けることに成功。朝倉軍の勝利に大きく貢献しました。1527年(大永7年)に朝倉教景は、室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)、及び管領(かんれい)「細川高国」(ほそかわたかくに)から援軍の要請を受けて上洛します。 そして「川勝寺口の戦い」(せんじょうじぐちのたたかい)に、幕府軍として参戦。「三好元長」(みよしもとなが)率いる軍勢と対峙し、勝利を収めたのです。 そのあと、1555年(天文24年/弘治元年)には、「上杉謙信」からの呼びかけに応じて「加賀一向一揆」の討伐に参加。しかし、陣中で病に倒れたことにより、朝倉氏の本拠地・一乗谷に帰還して療養生活に入りましたが、そのまま病死してしまったのです。

朝倉教景の武将・歴史人年表

本多忠刻の武将・歴史人年表

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本多忠刻 「本多忠刻」(ほんだただとき)は、「徳川家康」の家臣を務めていた姫路藩(現在の兵庫県姫路市)初代藩主「本多忠政」(ほんだただまさ)の長男として、1596年(文禄5年/慶長元年)に生まれました。 1601年(慶長6年)、徳川四天王のひとりであった祖父「本多忠勝」(ほんだただかつ)が、10万石で桑名(現在の三重県桑名市)に移封されたことに伴い、父と一緒に同地へ移っています。 1615年(慶長20年/元和元年)に「豊臣家」と江戸幕府が対立して起こった「大坂夏の陣」には、江戸幕府方として父と共に参陣。 同合戦における戦いのひとつ、「道明寺の戦い」(どうみょうじのたたかい)で本多忠刻は、敵の首を討ち取る武功を挙げたのです。 1616年(元和2年)、本多忠刻は、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の娘「千姫」(せんひめ)と結婚しました。 そのきっかけとして伝わる逸話は2つあり、ひとつ目は、大坂夏の陣後に江戸から戻る「七里の渡し」(宮宿[みやしゅく:名古屋市熱田区]から桑名宿[くわなしゅく:三重県桑名市]を結ぶ海路)での船中で、容姿端麗な本多忠刻に千姫がひと目惚れしたという逸話。 もうひとつは、豊臣秀頼と政略結婚をさせられた上に、同合戦で夫・豊臣秀頼を失った千姫を気の毒に思った徳川家康が、亡くなる間際に本多忠刻のもとへ再嫁(さいか)させることを命じたという逸話です。 どちらが真実なのかは定かではありませんが、いずれにしても、本多忠刻と千姫は仲睦まじく暮らし、2人の間には、長女・勝姫(かつひめ)と長男・「幸千代」(ゆきちよ)が生まれています。 そのあと、1617年(元和3年)に本多忠刻は、父とは別に姫路新田藩(ひめじしんでんはん:姫路藩の新田分地として与えられた領地)10万石を賜って、姫路に移ったのです。 そして1621年(元和7年)には、幸千代がわずか3歳で早世します。その5年後の1626年(寛永3年)に本多忠刻は、結核が原因でこの世を去りました。

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足利尊氏の武将・歴史人年表

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鎌倉幕府に続く武家政権・室町幕府を開いた「足利尊氏」(あしかがたかうじ)。96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した「元弘の乱」(げんこうのらん)では、幕府側に従軍します。しかし、のちに足利尊氏は、幕府を裏切って後醍醐天皇側に付きました。 そのあと、同天皇による「建武の新政」(けんむのしんせい)において、第一の功臣として忠義を尽くしたのです。そんな中、足利尊氏は、公家や天皇家にばかり目を掛ける後醍醐天皇に対し、徐々に不満を募らせていきました。最終的に足利尊氏は、同天皇に反旗を翻して「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)を起こします。 同合戦では、後醍醐天皇が送った「新田義貞」(にったよしさだ)、及び「楠木正成」(くすのきまさしげ)の軍勢と対峙して勝利を収めました。そのあと、足利尊氏は「光明天皇」(こうみょうてんのう)を擁立し、室町幕府を設立したのです。これに伴って後醍醐天皇は、吉野(現在の奈良県吉野郡)へと逃亡。「南朝」と呼ばれる朝廷を自ら開き、足利尊氏を中心とした「北朝」と対立することとなったのです。 1338年(延元3年/暦応元年)に足利尊氏は、室町幕府の初代征夷大将軍に就任。初めは弟「足利直義」(あしかがただよし)との二元政治を行っていました。しかし、1352年(正平7年/文和元年)には足利直義を暗殺。こうして足利尊氏は、自身への権力集中を成功させたのです。

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勝海舟の武将・歴史人年表

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勝海舟 江戸時代末期の幕臣として、江戸無血開城という大きな功績を残した「勝海舟」(かつかいしゅう)。 1845年(弘化2年)頃より、福岡藩士「永井青崖」(ながいせいがい)のもとで蘭学を学んだあと、兵学、及び蘭学を教える私塾「氷解塾」(ひょうかいじゅく)を開いています。 そして勝海舟は、江戸幕府が設立した「長崎海軍伝習所」に1期生として入所。1860年(安政7年/万延元年)には遣米特派使節に「咸臨丸」(かんりんまる)で随行し、同船の艦長を務めたのです。 アメリカから帰国すると、勝海舟は「軍艦奉行並」に就任します。さらには、自身の弟子であった「坂本龍馬/坂本竜馬」らの助けを得て、「神戸海軍操練所」を開設。海軍軍人の育成に注力しました。 1868年(慶応4年/明治元年)に「陸軍総裁」に任命された勝海舟は、西郷隆盛との間で江戸城開城の協定を結び、大政奉還によって政権が朝廷に返上されたあとも、明治新政府と徳川将軍家の仲介役として、その手腕を発揮。 明治政府の成立以降、「海軍大輔」(かいぐんたいふ)や「参議兼海軍卿」、「外務大杼」(がいむたいじょう)などの重要ポストを歴任しました。 1899年(明治32年)に勝海舟は自宅にて病死。その際、「これでおしまい」との言葉を残して亡くなったという逸話が良く知られています。

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