「楠木正成」(くすのきまさしげ)は、その出自には不明な点が多くありますが、一説によると、河内国(現在の大阪府東部)で栄えた豪族の家系に生まれたと言われています。
1331年(元徳3年/元弘元年)、96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)に召し出された楠木正成は、鎌倉幕府を討伐するために「赤坂城」(大阪府南河内郡)で挙兵。そのあと、「千早城」(大阪府南河内郡)を築いた楠木正成は、鎌倉幕府軍からの猛攻に耐えて籠城戦を繰り広げました。
これによって楠木正成は、諸国の反幕府勢力に蜂起を促したのです。赤坂城、及び千早城で挙げた武功が高く評価された楠木正成は、後醍醐天皇が始めた「建武の新政」のもとで、「河内守」(かわちのかみ)に任ぜられました。
さらに楠木正成は、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)・河内国(現在の大阪府東部)・和泉国(大阪府南西部)3ヵ国の守護職にも就いています。
1335年(建武2年)に楠木正成は、後醍醐天皇に反旗を翻した「足利尊氏」を九州に敗走させましたが、その翌年に再起した足利尊氏を摂津国湊川(現在の神戸市中央区、及び兵庫区)で迎え撃って敗死しました。