鎌倉幕府に続く武家政権・室町幕府を開いた「足利尊氏」(あしかがたかうじ)。96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した「元弘の乱」(げんこうのらん)では、幕府側に従軍します。しかし、のちに足利尊氏は、幕府を裏切って後醍醐天皇側に付きました。
そのあと、同天皇による「建武の新政」(けんむのしんせい)において、第一の功臣として忠義を尽くしたのです。そんな中、足利尊氏は、公家や天皇家にばかり目を掛ける後醍醐天皇に対し、徐々に不満を募らせていきました。最終的に足利尊氏は、同天皇に反旗を翻して「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)を起こします。
同合戦では、後醍醐天皇が送った「新田義貞」(にったよしさだ)、及び「楠木正成」(くすのきまさしげ)の軍勢と対峙して勝利を収めました。そのあと、足利尊氏は「光明天皇」(こうみょうてんのう)を擁立し、室町幕府を設立したのです。これに伴って後醍醐天皇は、吉野(現在の奈良県吉野郡)へと逃亡。「南朝」と呼ばれる朝廷を自ら開き、足利尊氏を中心とした「北朝」と対立することとなったのです。
1338年(延元3年/暦応元年)に足利尊氏は、室町幕府の初代征夷大将軍に就任。初めは弟「足利直義」(あしかがただよし)との二元政治を行っていました。しかし、1352年(正平7年/文和元年)には足利直義を暗殺。こうして足利尊氏は、自身への権力集中を成功させたのです。