「松永久秀」(まつながひさひで)は、その出自に不明な点が多く、山城国(現在の京都府南部)、もしくは摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)出身であったと伝えられています。
当初は摂津国守護代「三好長慶」(みよしながよし)のもとで、右筆(ゆうひつ:文書や記録の作成を司った役職)として仕えていました。
そのあと、松永久秀は「弾正忠」(だんじょうちゅう)に任官し、和泉国(大阪府南西部)の堺代官を務めていたのです。
1559年(永禄2年)、大和国(現在の奈良県)に入った松永久秀は、「筒井順慶」(つついじゅんけい)が拠点としていた「筒井城」(奈良県大和郡山市)を陥落。翌年には「興福寺」(奈良県奈良市)勢力を破り、大和国を平定しました。
これ以降、同国において松永久秀は、「多聞山城」(たもんやまじょう:奈良県奈良市)や「信貴山城」(しぎさんじょう:奈良県生駒郡)などを築きます。
そして、松永久秀は「三好氏」の家老となって権勢を振るい、大和国を支配するようになったのです。
さらに松永久秀は、主君・三好長慶が1564年(永禄7年)に亡くなると、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)を殺害。
大和国を含む畿内にまで、その実権が及ぶ範囲を拡大しました。1567年(永禄10年)には、三好氏を主導していた「三好三人衆」、及び筒井順慶軍との間で「東大寺大仏殿の戦い」が勃発。
松永久秀は同合戦に勝利しますが、同寺の大仏殿は焼失してしまいました。そのあと、松永久秀は、上洛してきた織田信長の家臣となりますが、1572年(元亀3年)に謀反を起こし、15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)が統率していた「信長包囲網」に加わります。
しかし、1577年(天正5年)の「信貴山城の戦い」で、松永久秀は織田軍に追い詰められ、同城に火を放って自害。68歳で亡くなってしまったのです。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1510年(永正7年) | 1歳 |
誕生。その出自には諸説ある。
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1533年(天文2年) | 24歳 |
三好長慶に右筆として仕え始め、弾正忠に任ぜられる。
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1559年(永禄2年) | 50歳 |
大和国へ侵攻し、筒井城を落城する。
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1560年(永禄3年) | 51歳 |
興福寺勢力の制圧に成功し、御供衆(おともしゅう)に任命される。
そのあと、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任官する。 |
1562年(永禄5年) | 53歳 |
多聞山城を築城。同城を大和国支配の拠点とする。
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1567年(永禄10年) | 58歳 |
三好三人衆、及び筒井順慶軍と東大寺周辺で戦い、松永久秀軍が勝利を収める。
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1568年(永禄11年) | 59歳 | |
1572年(元亀3年) | 63歳 |
織田信長に背き、信長包囲網に参加する。
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1577年(天正5年) | 68歳 |
信貴山城の戦いで籠城するも、最終的に自害して亡くなる。
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