「池田輝政」(いけだてるまさ)は1564年(永禄7年)に、「織田信長」の重臣「池田恒興」(いけだつねおき)の次男として、尾張国・清洲(現在の愛知県清須市)で誕生。
元服後、池田輝政は、「織田信長」のもとで近習(きんじゅ:主君の側近くに仕える者)となって働いています。
1579年(天正7年)、織田信長の家臣を務めていた「荒木村重」(あらきむらしげ)が反旗を翻し、「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)が勃発。同合戦に池田輝政は、父と共に参戦しています。
その翌年に、荒木村重が「花隈城」(はなくまじょう:神戸市中央区)に籠ったことで始まった「花隈城の戦い」において池田輝政は、荒木軍の武士5~6人を自身で討ち取ったことが高く評価され、織田信長より感状を授けられました。
そのあと、1582年(天正10年)の「本能寺の変」によって主君・織田信長が亡くなると、池田輝政は、「豊臣秀吉」に仕えることに。
「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)や「九州平定」(別称[九州征伐])、「小田原の役」(別称[小田原征伐])など、豊臣秀吉による主要な合戦の大半に参陣し、武功を重ねていったのです。
1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」において池田輝政は、「徳川家康」率いる東軍に従軍。同合戦での活躍によって池田輝政は、播磨国・姫路(現在の兵庫県姫路市)52万石を賜り、姫路藩初代藩主となったのです。
そして池田輝政は、1601年(慶長6年)より8年の歳月を掛けて、姫路城の大規模な改修を行いました。現在観られる姫路城の姿は、この大改修によってできあがったと考えられています。こうして池田輝政は、姫路藩における藩政の基礎を築き上げ、「西国の将軍」と称されるようになったのです。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1564年(永禄7年) | 1歳 |
池田恒興の次男として生まれる。
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1579年(天正7年) | 16歳 | |
1580年(天正8年) | 17歳 |
花隈城の戦いにて武功を挙げ、織田信長から感状を賜る。
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1582年(天正10年) | 19歳 | |
1583年(天正11年) | 20歳 | |
1584年(天正12年) | 21歳 | |
1587年(天正15年) | 24歳 |
豊臣秀吉による九州平定に従軍する。
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1590年(天正18年) | 27歳 | |
1594年(文禄3年) | 31歳 |
徳川家康の娘・督姫を継室として迎え入れる。
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1600年(慶長5年) | 37歳 |
関ヶ原の戦いが起こる。東軍に属した池田輝政は、吉川広家(きっかわひろいえ)などの西軍の抑えを務めた。
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1601年(慶長6年) | 38歳 |
姫路城の大改修を行う(~1609年[慶長14年])。
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1613年(慶長18年) | 50歳 |
前年にかかった中風により、姫路にて亡くなる。
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