『柳生武芸帳』で知られる五味康祐(ごみやすすけ)。柳生家を中心に多彩な剣客像を生みだしました。柳生十兵衛三厳を公儀隠密(忍者)として描くなど、五味の多彩な着想はその後多くの後発作品に取り入れられています。
背後の床に新陰流正統の宝刀--出雲国永則が架けられている。この大太刀は元弘時代の余風によって足利三代頃に造られた。刃長四尺七寸五分、自在に振廻すなどという上手な事は出来ない。かつて兵庫介は従者に之を持たせて武威を示し、人を訪う時は居外に護持せしめたが、身に一尺ばかりの一ふりを差すのを常とした。
「柳生連也斎」より
かつて武蔵は、仕官の望みを抱いて義直の前で剣技を披露していました。けれども、尾張藩の兵法指南役を務める柳生兵庫介利厳の判断で、武蔵の望みは絶たれます。利厳は、柳生宗厳が実子で将軍家の兵法指南役を託した宗矩にではなく、甥である利厳に正統を継がせた剣客です。
尾張を去るとき武蔵は、綱四郎に秘太刀「見切」を授けます。利厳(号:如雲斎)は三男の厳包(号:連也斎)に助言をし、連也斎と鋼四郎との真剣勝負が行なわれます。五味は「柳生連也斎」で、利厳と武蔵の代理戦争を描きました。
「見切を制覇するには『影』を斬るのじゃ」と如雲は教えた。
「よいか、工夫は其方がする事じゃ。必ず、相手の影を斬れい。」
「柳生連也斎」
その後も五味は、柳生家を題材にします。未完の長編『柳生武芸帳』(1956~1958年『週刊新潮』連載)です。『週刊新潮』の創刊号から掲載され、「剣豪小説」ブームを呼び起こしていきます。
江戸時代前期、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の時代を舞台にした『柳生武芸帳』では、将軍家の兵法指南役を務める柳生但馬守宗矩を中心に、3巻の武芸帳を巡る争いが描かれます。
そこには、柳生家と柳生一門の存立、ひいては幕府転覆にかかわる内容が記されており、肥前国唐津藩寺沢家の兵法師範役・山田浮月斎とその弟子で双子の忍者・霞多三郎と千四郎らが狙います。疋田文五郎の直弟子でもある浮月斎は、寺沢家の取りつぶしにかかわった柳生家への復讐を考えていました。作品は連載中、霞多三郎を主役に三船敏郎の主演で映画化されました。
五味は柳生家を兵法(剣術)指南役だけではなく、公儀隠密(忍者)として描きました。隠密活動の中心は、宗矩の長男・十兵衛三厳が担います。
十兵衛は静かに太刀を取直し、頬の微笑を消さず『花車』に構えた。十兵衛だけが、新陰流から更にきわめ得た秘法の一刀である。
『色につけてめぐる花車と云う也』
と、柳生流新秘抄に記されているが、相手が太刀の構えもなく様子を見るものに、色を仕懸けて働きを出させる太刀である。
『柳生武芸帳』
五味はその後も、武蔵2人説に基づく『二人の武蔵』と赤穂義士随一の剣客・堀部安兵衛武庸が主人公の親友として重要な役どころを担う『薄桜記』の新聞連載を執筆。それまでの剣豪像を新たに生まれ変わらせ続けました。