『前田利家』を描いた戸部新十郎(とべしんじゅうろう)。生涯に亘って加賀前田家を描き続けた戸部は、前田家の刀剣の世界を教えてくれます。
戸部新十郎は石川県七尾に生まれ、金沢で育ちます。北國新聞社退職後、作家の道を選び、長谷川伸が創設した新鷹会の同人になります。同会の同人誌『大衆文芸』初出をもとに書き下ろした『安見隠岐の罪状』(1973年)は、第70回直木三十五賞候補作になりました。
主人公・安見隠岐元勝は、加賀藩初代藩主・前田利長(加賀前田家2代)と跡を継いだ利常の2代に仕えた家臣です。元勝は鉄砲を得意とし、大坂の陣で武功を立てていたものの、かぶき者ゆえに能登島に流され、生涯を終えています。戸部は元勝を、加賀前田家の祖・前田利家の義理の甥でかぶき者として知られた前田慶次郎を憧憬し、徳川家康に屈した利長・利常に反発し続けた武士として描きました。
加賀前田家を描くことは戸部のライフワークとなっていきます。『前田利家』(1978~1980年『いくせい』連載)では、槍を得意とし、若き頃はかぶき者であった加賀前田家の祖・利家の生涯を描きます。
同作は、利家の尾張国での生誕から始まります。成長した利家は、織田信長に仕え、槍の腕前で能登国主へ。本能寺の変ののち、柴田勝家派から羽柴(豊臣)秀吉派に回った賤ヶ岳の戦い、秀吉派に回った利家を攻めた佐々成政を破った末森城の戦い、それらの成果で加賀百万石の礎を築く太守に。秀吉逝去後は、秀吉の遺言を守り五大老として秀頼を支える中で徳川家康との確執、と利家が亡くなるまでが記されました。
七日、秀吉は諸大名衆に、遺物を分与した。場所は利家邸である。一同への振る舞いはそうめんだった。
前田家への太閤遺物配分は、つぎのようである。
三好正宗御腰物並金三百枚、加賀大納言利家
義弘御腰物 越中宰相利長
貞宗 能登侍従利政
『前田利家』より
三月三日卯の刻、利家はなにかつぶやいた。それから、側に置いてあった新藤吾国行の脇差をとり、鞘のまま胸に当て、二声三声呻いたまま、ふたたび眼を開くことがなかった。
『前田利家』
戸部はその後、古巣の北國新聞社が創刊した雑誌で『前田太平記 富田流秘帖』(1989~1995年『月刊北國アクタス』連載)を執筆します。
利家と利長に仕えた家臣・山崎六左衛門(のち富田重政)の視点で加賀前田家を描きました。六左衛門は、富田流の創始者・富田勢源の弟・景政の養子となって富田宗家を継ぎ、その剣の腕前から「越後名人」と称された剣客です。
『前田太平記 富田流秘帖』は、富田勢源と上泉伊勢守信綱(新陰流)の高弟・疋田文五郎の手合わせから始まります。豊臣秀次のご前で景政と文五郎の手合わせ、徳川将軍家の兵法指南役となったことで柳生の独裁を目指す柳生又右衛門宗矩が重政と文五郎の命を狙うなどの剣の場面を交え、大坂の陣までが描かれます。
また、宗矩と同じく徳川将軍家の兵法指南役を務めた小野忠明の冷遇にもふれます。忠明は、勢源・景政の高弟の印牧(鐘捲)自斎に学んだ伊東(伊藤)一刀斎の高弟で、戸部は、加賀前田家VS江戸幕府、富田VS柳生として歴史をとらえ直しました。
景政は関白秀次が与えた“天下一”ではないにせよ、当代屈指の遣い手だったことは間違いない。疋田文五郎を打ち負かしたあと、敵するものはたぶん、石舟斎においてなかっただろう。
かつて、景政の兄であり、道統上の師匠だった勢源が、上泉伊勢守との立合いを望んでいたように。
要するに、新陰流だった。そのときどきの新陰流の総帥を打ち破らねば、天下一とはいえないのである。
六左衛門にも、そんな相手がいる。
<柳生又右衛門>
『前田太平記 富田流秘帖』
戸部は故郷の剣客の掘り起こしを続けます。
短編集「鬼剣」や、「秘剣」シリーズと称される短編集「秘剣水鏡」、「秘剣花車」、「秘剣龍牙」、「秘剣埋火」、「秘剣虎乱」、連作短編「幻剣蜻蛉」などで、草深甚四郎、阿波賀小三郎、印牧吉広、富田勢源、山崎将監、長谷川宗喜、佐々木小次郎、富田重政、富田一放ら加賀ゆかりの剣客を多く取り上げました。
『前田利常』(未完)が最後の長編となった戸部は、生涯に亘って加賀前田家を描き続けました。その刀剣世界には、江戸幕府樹立以前の前田家への憧憬があります。