「北条氏政」(ほうじょううじまさ)は、相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)を本拠として発展した戦国大名、「後北条氏」(ごほうじょうし)の4代当主です。同氏の勢力を拡大させることに尽力した北条氏政は、関東地方において、歴代当主の中で最も大きい版図を築き上げました。しかし、「豊臣秀吉」の「小田原の役」(おだわらのえき:別称[小田原征伐])により、北条氏政の代で後北条氏を滅亡させてしまうことに。そのため「愚将」と揶揄される一方で、領民に対して善政を敷いていたことから、「名君」とも評されています。北条氏政が本当はどんな人物であったのかが分かる逸話を交えつつ、その生涯についてご説明します。
1538年(天文7年:1539年[天文8年]説もあり)後北条氏・3代当主「北条氏康」(ほうじょううじやす)の次男として誕生した北条氏政。
ところが、嫡男であった兄「北条氏親」(ほうじょううじちか)が、1552年(天文21年)に早世したため、後北条氏の跡継ぎとなりました。
なお、鎌倉幕府で執権を務めた「北条氏」と区別するため、小田原の北条氏は「後北条氏」と呼ばれています。
1554年(天文23年)には父・北条氏康が、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」(本名:武田晴信[たけだはるのぶ])と、駿河国(現在の静岡県中部、及び北東部)の「今川義元」(いまがわよしもと)の間に、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)と称する和平協定を締結。
これに伴い北条氏政は、武田信玄の娘である「黄梅院」(おうばいいん/こうばいいん)を正室として迎え入れています。
1559年(永禄2年)12月に父・北条氏康が隠居したことにより、北条氏政は後北条氏の家督を相続。同氏4代当主の座に就いたのです。北条氏康が存命でありながら家督を北条氏政に譲ったのは、関東全域で発生した「永禄の飢饉」(えいろくのききん)と呼ばれる大飢饉と疫病の流行が背景にあります。
当時の後北条氏は、内政に問題が生じた場合、それらに対処する手段のひとつとして、代替わりを行って責任を取ることが慣例となっていました。北条氏政の家督相続は、この飢饉によって窮状に陥った領民達の救済、そして復興を目的として、免税などの徳政(とくせい:目立った恩恵を施す徳のある政治)を実施するために行われたのです。
1561年(永禄4年)には、越後国(現在の新潟県)の「上杉謙信」(別称:上杉輝虎[うえすぎてるとら])によって、小田原城が包囲される事件が起こります。
この時の上杉謙信は、武蔵国(現在の埼玉県、東京都23区、及び神奈川県の一部)など関東の諸大名を集めた大軍を率いていたのです。
そのため後北条氏はピンチに陥りましたが、同盟を結んでいた武田信玄の支援を受けるなどして上杉軍を退け、上杉謙信は、一旦越後へと撤退しました。
そのあと、上杉謙信と武田信玄の間で「第4次川中島の戦い」が繰り広げられ、上杉軍が大きな被害を受けたのです。これを好機と見た北条氏政は、武田信玄と示し合わせて北関東方面へ攻め込みます。上杉軍との決着はなかなか付きませんでしたが、北条氏政は、何度か繰り返される攻防を経て、上杉謙信に奪われた領土を少しずつ取り戻していったのです。
第4次川中島の戦いから3年後、房総地方を領した戦国大名「里見氏」(さとみし)と後北条氏の間で、「第2次国府台合戦」(だいにじこうのだいかっせん)が勃発。「国府台城」(千葉県市川市)一帯で起こった同合戦で後北条軍は当初、苦戦を強いられていました。
しかし、北条氏政が後北条氏の家臣「北条綱成」(ほうじょうつなしげ/つななり)と共に里見軍の背後を攻めたことにより、後北条軍が圧勝。後北条氏は、上総国(現在の千葉県中部)にまで領土を拡大したのです。
1567年(永禄10年)、「里見義堯」(さとみよしたか)・「里見義弘」(さとみよしひろ)父子が上総の奪回を目的に侵攻。北条氏政はこれを阻止するために、上総東部にある三船山(みふねやま)に陣所を設けます。ところが、以前里見氏の配下であった国人が、里見軍に内応していたことで、後北条軍は里見軍に大敗を喫したのです。そして後北条氏は、上総国の支配権を失うことになりました。
1568年(永禄11年)12月には武田信玄が、今川氏の領国であった駿河を侵攻します。これにより、北条氏政と武田信玄、そして今川義元の間で結ばれた前述の三国同盟が解消されることに。北条氏政は、今川義元の嫡男であり、自身の従兄弟に当たる「今川氏真」(いまがわうじざね)を援助するために薩埵峠(さったとうげ)へ出陣。
武田軍と戦ってその勢力を追放することに成功します。そして駿河の一部が、一時的に後北条氏の勢力圏に収められました。さらに北条氏政は、今川氏真が逃亡した「掛川城」(静岡県掛川市)にも援軍を送ったのです。
武田信玄による駿河侵攻が契機となり、北条氏政は「上杉氏」との講和交渉を進めます。翌1569年(永禄12年)閏5月には、武田信玄を討伐したいと言う両者の思惑が一致したため、いわゆる越相同盟(えっそうどうめい)を締結することになったのです。
同年10月には、武田信玄が小田原城を来襲。武田軍が帰路に就く途中の三増峠(みませとうげ:神奈川県愛川町)にて、父・北条氏康の代わりに本隊を率いた北条氏政が、武田軍と激戦を繰り広げます。この「三増峠の戦い」では最終的に、武田軍が勝利を収めたのです。
そんな中、1571年(元亀2年)10月に、父・北条氏康が死去。名実共に後北条氏の当主となった北条氏政は、早々に武田信玄との講和交渉を開始します。そして同年12月には、「武田氏」との間に「相甲同盟」を成立させ、上杉氏との同盟を絶つことにしたのです。
こうして武田信玄と和睦した北条氏政は、関東地方の制圧を目的に、そのあと、「織田信長」とも手を組んでいます。1578年(天正6年)に上杉謙信が亡くなると、上杉家のお家騒動である「御館の乱」(おたてのらん)が勃発。
同家の後継者を巡り、北条氏政と武田氏の間で意見が対立したことから、武田氏との相甲同盟が破綻します。翌1579年(天正7年)に北条氏政は、「徳川家康」と同盟を結び、武田氏の領国であった駿河を挟撃。
加えて1580年(天正8年)に北条氏政は、武田信玄の四男であり、武田家の家督を相続していた「武田勝頼」(たけだかつより)を再び攻めています。そしてその陣中にて、北条氏政は長男「北条氏直」(ほうじょううじなお)へ、後北条氏の家督を譲ったのです。
隠居の身となった北条氏政でしたが、内政における実権を握り、北条氏直による政務を補佐しています。そして1583年(天正11年)8月に北条氏政は、北条氏直に徳川家康の娘「督姫」を正室として迎え入れさせたのです。
この頃、北条氏政と北条氏直には、関白の豊臣秀吉から上洛を再三要求されていました。ところが北条氏政は、これに応じることなく、居城としていた小田原城を修築するなどして軍備を強化。豊臣秀吉による侵攻がいつ行われても良いように準備していました。
そして1590年(天正18年)には、豊臣秀吉の軍勢により、小田原城が猛攻されます。小田原の役と称されるこの戦いで、北条氏政は籠城策を決断しますが、大軍であった豊臣軍を退けられず、また頼りにしていた徳川家康などが、当てにならないと分かったため、最終的には降伏。
弟の「北条氏照」(ほうじょううじてる)と共に切腹を命じられた北条氏政は、同年7月11日に、小田原城にて自害するという非業の最期を遂げ、後北条氏は、滅亡することとなったのです。
北条氏政が後北条氏の滅亡を招いてしまったのには、武田氏や上杉氏といった猛者達の攻撃を受けながらも、小田原城が一度も陥落させられなかったことにより過剰に持っていた自信が、その背景にあったと考えられています。
北条氏政は、天下統一を進めていた豊臣秀吉の真の実力を甘く見てしまっていたのです。これが、北条氏政が愚将と評されている要因のひとつとなっています。そんな北条氏政の人物像が窺えるのが、「麦」と「味噌汁」、2つの食べ物にまつわる逸話です。
ある日のこと、麦の収穫を見ていた北条氏政。獲れたての麦を炊いて昼食に食べたいと周囲の者に話しました。しかし、麦を食べられるようにするのには、乾燥や脱穀など、調理の前にやらなければならないことがいくつかあります。
それにもかかわらず、すぐに食べたいと言い出した北条氏政に対して武田信玄が、「北条氏政は育ちが良いから、麦なんて食べたことがないだろう」と嘲笑したと伝えられているのです。
北条氏政がいかに世間知らずであったかが分かるこの逸話は、武田氏の戦略や戦術をまとめた「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)に記載されており、現在では、武田氏を持ち上げるための創作であったとも言われています。そしてもうひとつの味噌汁に関する逸話は、北条氏政が食事をしていた時に起こった逸話です。
ご飯に味噌汁をかけて食べていた北条氏政でしたが、その途中で汁が足りなくなってしまいます。そこで汁を再度ご飯にかけ足すと、それを見ていた父・北条氏康が、「汁かけご飯の量も満足に推測できないようでは、家臣や領国を慮る[おもんぱかる]ことは不可能である」と、ため息をついたとされる逸話も残されているのです。
本状の宛名に書かれている「高田左衛門尉」(たかださえもんのじょう)は、後北条氏に仕えていたと推測される人物です。
その経歴などの詳細は明らかにされていませんが、北条綱成と綿密に連絡を取り合っていたことが窺える文書が残っており、そちらには、本状と同じ「七月朔日」(さくじつ:旧暦で一日のこと)と言う日付が記載されています。
本状では、敵軍が行動を起こしたため、北条氏政自身が、現在の神奈川県、及び静岡県の県境付近に当たる足柄(あしがら)へ移動すること、それに伴い、高田左衛門尉も小足柄と冨島に築かれた陣営へ赴くことが命じられています。
さらには高田左衛門尉の同心とも言える関係にあった北条綱成にも、移動する旨を申し付けてほしいとも書かれているのです。
このような内容から本状は、1568年(永禄11年)に駿河国を侵攻し始めた武田信玄と北条氏政が対峙した際に送られた文書であると推測されています。