「本多忠政」(ほんだただまさ)は、三河国(現在の愛知県東部)の譜代大名「本多忠勝」(ほんだただかつ)の嫡男です。戦上手の偉大な父・本多忠勝の影に隠れがちですが、才智に優れて勇猛で、江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」からの信頼も厚かった人物。桑名藩(現在の三重県)10万石、姫路藩(現在の兵庫県)15万石の藩主を務め、後世に評価される良政を行いました。本多忠政の生涯や愛刀など、本多忠政の歴史について詳しくご紹介します。
1575年(天正3年)に生まれた「本多忠政」は、「本多忠勝」の長男です。
父・本多忠勝は、「徳川家康」の重臣で、徳川四天王のひとり。生涯57戦中、一度も傷ひとつ負わなかったという最強の武将です。
本多忠政は、本多忠勝が27歳のときの子どもで、幼少期から剣術や兵法を鍛錬され、7歳下の弟「本多政朝」(ほんだまさとも)と共に、徳川家家臣の子どもとしてふさわしい英才教育を受けていたと考えられます。
初陣は15歳のとき、1590年(天正18年)の「小田原征伐」です。
相手は相模国(現在の神奈川県)の猛将、後北条氏。
父・本多忠勝と共に勇猛に戦い、岩槻城を陥落する大手柄を上げ、後北条一族を滅亡させました。
この褒賞として、父・本多忠勝には大多喜藩(現在の千葉県)10万石が与えられたのです。また、本多忠政は、正室・熊姫(ゆうひめ:徳川家康の長男[徳川信康]の次女)と結婚。
1598年(慶長3年)には、従五位に叙せられて美濃守となっています。しかし、1600年(慶長5年)「上田合戦」では、本多宗家本陣2,500兵を率いて「徳川秀忠」に従軍し、「真田昌幸」・「真田幸村」と抗戦して大敗。
相当な死傷者を出したうえ、徳川秀忠と共に「関ヶ原の戦い」に遅参するという失態をおかしてしまったのです。一方、父・本多忠勝と弟・本多忠朝は関ヶ原の戦いでも活躍。
1601年(慶長6年)、父・本多忠勝は桑名藩(現在の三重県)10万石へ移封となり、弟・本多忠朝は大多喜藩5万石を受領するという褒賞を得ました。褒賞のなかった本多忠政は、父・本多忠勝に同行して桑名に入ります。そして、1609年(慶長14年)、父・本多忠勝の隠居に伴って家督を相続し、1610年(慶長15年)父・本多忠勝の死去により、35歳にして桑名藩2代目藩主となったのです。
1614年(慶長19年)「大坂冬の陣」では先鋒を務め、1615年(慶長20年)「大坂夏の陣」では、敵首292を獲るなど、亡父・本多忠勝に見まがうような勇猛ぶりを発揮します。
これにより石高が加増され、1616年(元和2年)に姫路藩(現在の兵庫県)15万石に転封となったのです。姫路城を修築し、東本願寺の要請に応えて船場本徳寺を建立、船場川を改修し、川沿いに新町を造るなど、善政を行いました。
また、同年、イケメンとして有名な長男「本多忠刻」(ほんだただとき)が千姫(徳川秀忠と江の長女)と結婚し、息子夫婦のために化粧櫓と住居御殿を築造しています。しかし、幸せな日々もつかの間、1621年(元和7年)に長男・本多忠刻の子どもで初孫「幸千代」が3歳で早世。
次いで、1626年(寛永3年)に長男・本多忠刻が結核にかかって急死してしまいます。さらに、1631年(寛永8年)、今度は本多忠政が、流行りの病気にかかり、多くのひとに惜しまれて亡くなりました。享年56歳でした。
本多忠政は、豊臣政権時代は、父・本多忠勝と共に武断派。智力に長け、刀好きと言われた徳川秀忠にしたがっていたせいもあるのか、刀の目利きができたことで有名です。
また、剣豪「宮本武蔵」が、姫路で「日本第一剣術之達人」という看板を道場に掲げていたことをいち早く知り、200石で姫路藩の客分に取り立て、嫡男・本多忠刻に指南させています。
刀剣・剣術好きの本多忠政が愛刀とした、2振の名刀と書状幅についてお伝えします。
「短刀 銘 来国光」(名物塩川来国光)は、山城伝(現在の京都府)来派(らいは)の刀工で短刀づくりの名人と呼ばれた「来国光」(らいくにみつ)が作刀した1振です。
享保名物帳に「塩川来国光 在銘長八寸四分 代金百枚 本多中務殿 信長公の御時、江州塩川殿所持。後本多美濃守所持」と書かれた通り、この短刀は元々江州(現在の滋賀県)の豪族・塩川氏が所持し、のちに本多忠政が所持した物。
本阿弥家の鑑定により、金百枚(現在価値にして約10,000,000円)の折紙が付けられました。地鉄は小板目肌、刃文はのたれて小乱れ、小沸良く付き、匂口明るく冴えて秀逸。茎が振袖形で可愛らしいのが特徴です。
「桑名江」(くわなごう)も、本多忠政が入手し、本多家の家宝となった刀です。桑名(現在の三重県)で鷹狩をしていた本多忠政が、休憩を取った農家の神棚に飾ってあった刀にひとめ惚れし、農家の主に頼んで譲ってもらった1振。
本阿弥家に鑑定してもらったところ、「天下三作」に数えられる名工「郷義弘」の刀だと判明しました。折紙は、金三百枚(現在価値にして約30,000,000円)で、本多忠政の目利きが実証されたのです。
本多忠政はこの刀を金工家「埋忠寿斎」(うめただじゅさい)に磨り上げさせ、表に「義弘 本阿(花押)」、裏に「本多美濃守所持」と金象嵌銘を入れ、桑名江と名付け愛刀としました。地鉄は小板目肌、刃文は小のたれで互の目交り、小沸良く付き、匂深く、金筋もかかり、秀逸です。
本多忠政が智将だったことが分かる、面白い逸話があります。それは、本多忠政が桑名藩主だった時代。江戸幕府は奉行衆に命じて、江戸から京都所司代まで、頻繁に御用金を運んでいました。
あるとき、本多忠政は、奉行衆が夜になったため、桑名城下の宿屋を探しているという情報を耳にします。
そこで、本多忠政は「大事な御用金を運んでいるのに、不測の事態があってはなりません。どうか御用金は桑名城内の蔵に預けて下さい。御一同も屋敷に泊まられよ」と声を掛けたのです。
奉行衆は、桑名藩主は何て親切なのだろうと感激して、屋敷に泊まらせてもらいました。しかし、朝になって、奉行衆が蔵に御用金を受け取りに行くと、門番は「殿の命により御用金はお返しできません」と言うのです。
あわてて、本多忠政に直訴したところ「このたびは多額の金子を蔵にお納めいただき、誠にかたじけない。このまま借り受けいたしますが、それでは貴殿が務めを果たせないことでしょう。したがって、代わりの金子をご公儀に依頼しますので、しばらく当城に滞在して下さいな」というではありませんか。
もはや、滞在なんてしていられないので、奉行衆は急いで江戸に戻って報告したところ、第2代将軍・徳川秀忠は笑って、「本多の謀略にやられたね。御用金はそのまま本多忠政に貸し与え、京へは代わりの金子を遣わすがよい」とおっしゃったのです。
本多忠政に何のお咎めもなかったのが凄いところ。それだけ、本多忠政と第2代将軍・徳川秀忠の関係が良好で、江戸幕府の財政も豊かだったということでしょう。とは言え、「屋敷に泊まられよ」などと、親切すぎる甘い言葉を言う人物には、必ず策略があると考えた方が良さそうです。