豊臣秀吉の死後、豊臣家は晩年に生まれた実子の「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が当主となっていましたが、もともとは、別の人物が後継者候補となっていたことをご存知でしょうか。実子に恵まれなかった豊臣秀吉には7人の養子がおり、そのなかで「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)という人物が2代目関白となり、豊臣家を相続していました。しかし、実子の豊臣秀頼が生まれたことで、豊臣家を継いだ豊臣秀次の運命は大きく変わってしまうのです。今回は、豊臣政権崩壊のきっかけとなった「秀次事件」でも知られる豊臣秀次について紹介します。
豊臣秀次が生まれたのは、豊臣秀吉が織田家の奉公衆として奮励していた頃の1568年(永禄11年)のこと。豊臣秀吉の姉「とも」と「三好吉房」(みよしよしふさ)の長男として、尾張国知多郡大高村(現在の愛知県名古屋市緑区)で誕生しました。
豊臣秀次の人生は、幼少期の時点で豊臣秀吉によって翻弄されることとなります。
当時、豊臣秀吉は織田信長の近江国(現在の滋賀県)侵攻に伴い、北近江の浅井氏の家臣である「宮部継潤」(みやべけいじゅん)を降伏させるために奔走していました。
豊臣秀吉は宮部継潤との交渉の際に、4歳の豊臣秀次(当時の名は治兵衛)を人質に差し出します。
このまま豊臣秀次は宮部家の養子となり、「宮部吉継」(みやべよしつぐ)と名乗るようになりました。そのあと、浅井氏が滅亡すると、宮部継潤は豊臣秀吉の臣下となったため、豊臣秀次も養子ではなくなることに。
しかし、豊臣秀吉は畿内(きない:山城・大和・河内・和泉・摂津の5ヵ国)での連携を強めるために、今度は河内国(大阪府羽曳野市)の「高屋城」の城主であった「三好康長」(みよしやすなが)のもとへ豊臣秀次を引き渡します。こうして、豊臣秀次は再び他家の養子となり、「三好信吉」(みよしのぶよし)と改名して三好家を相続することとなりました。
1583年(天正11年)頃から、豊臣秀次は三好家で家臣団を束ねる地位となっていました。翌年の1584年(天正12年)、豊臣秀吉が織田信長の後継として天下統一への道を歩み始めると、豊臣秀次も羽柴姓(当時の豊臣秀吉の姓)に復帰して羽柴信吉と名乗り改め、天下人の甥として期待される存在となっていったのです。
この年に織田・徳川勢力と争った「小牧・長久手の戦い」では、将来を嘱望される豊臣秀次が総大将を務めましたが、有力家臣を失う大敗を喫します。この戦いで失態を演じた豊臣秀次は、豊臣秀吉から激しく叱責を受けたと言われています。
しかし、そのあとの「紀州征伐」と「四国征伐」では副将として活躍を見せ、豊臣秀次は汚名返上を果たすことに。そして、戦功を挙げた豊臣秀次は羽柴信吉から「羽柴秀次」と改名し、1586年(天正14年)には豊臣秀吉から豊臣姓を授かりました。
順調に出世を重ねていた豊臣秀次は、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の嫡男である「鶴松」(つるまつ)が亡くなったことから、改めて豊臣秀吉の養子となり、正式な後継者としての道を歩み始めます。この頃、朝鮮侵略の「文禄の役」(ぶんろくのえき)を控えていた豊臣秀吉は、関白職を豊臣秀次に譲り、2代目関白として豊臣秀次は実質的な統治者となっていきました。
ところが、1593年(文禄2年)に豊臣秀吉と「淀殿」(よどどの)との間に念願の実子が生まれると、豊臣秀次の運命は大きく転換することとなります。豊臣秀次は天下人後継者としての地位を確立していたにもかかわらず、実子の「お拾」(おひろい:のちの豊臣秀頼)の誕生により、豊臣秀吉から早々と隠居を促されることに。
豊臣秀吉はお拾を溺愛し、一刻も早く跡を継がせたいあまり、豊臣秀次の娘を生まれたばかりのお拾と婚約させようともしていたのです。こうした豊臣秀吉の対応に不安を募らせた豊臣秀次は、持病の喘息を悪化させ心神喪失状態へと陥っていきます。この頃から豊臣秀吉と豊臣秀次の関係は悪化していきました。
1595年(文禄4年)、豊臣秀次はついに謀反の疑いをかけられ、関白職を剥奪されてしまいます。豊臣秀次はこれを否定しましたが、豊臣秀吉に拝謁することは叶わず、わずかな従者とともに高野山へ追放されることに。
このとき、豊臣秀次は服装の指定や出入り禁止を命じられ、監禁に近いかたちで隠棲の身となってしまったのです。そして、追放が決まってからわずか1週間ほどで、豊臣秀次は切腹を命じられ、28歳で人生の幕を閉じました。
この豊臣秀次の処刑に伴い、妻妾・子・家臣とその家族を含む30人以上が京都三条河原で斬首となり、豊臣秀次の関係者は徹底的に皆殺しにされています。このように唐突に起きた「秀次事件」は、あまりに残忍な処断であったことから、諸大名や民衆にまで不安は広がり、のちに豊臣政権を崩壊に導くきっかけのひとつとなりました。
天下人の後継として地位を固めていたはずの豊臣秀次が、急転直下して自害することとなった「秀次事件」の真相は判明しておらず、いくつかの仮説が語られてきました。
一説によると、豊臣秀次は隠居を迫られた頃から自暴自棄になり、「殺生関白」と噂されるほど素行に問題があったとも言われています。
豊臣秀吉は切腹した豊臣秀次を三条河原に晒し首にして、そこで家族や家臣達を処刑させました。処刑者の中には、豊臣秀次に側室として嫁ぐ予定だった「最上義光」の娘である「駒姫」(こまひめ)の姿も。
当時、美少女と有名だった駒姫はまだ15歳と若く、正式に側室となる前だったため最上家をはじめとする諸大名から助命嘆願がされていました。この声に対し、豊臣秀吉は駒姫の処刑を免除するよう命じましたが、処刑場まであと一歩のところで間に合わず、他の側室達と同様に駒姫は処刑されてしまったと言われています。
このように、豊臣秀次の近親者は、幼い子どもや女性であっても例外なく許されず、悪人であるという見せしめが行われたのです。秀次事件による駒姫の死は、そのあとに最上家が「関ヶ原の戦い」で東軍の徳川方につくきっかけになったとも考えられています。
豊臣秀吉の命で三条河原の処刑が行われたあと、無残に重ねられた30人以上に及ぶ遺体はひとつの穴に放り込まれ、土で埋め立てた上に豊臣秀次の首を納めた石櫃(せきひつ:納骨用の石製の箱)が置かれました。
さらに、この場所に「秀次悪逆」と記した石塔を築き、豊臣秀次の首塚と墓が造られたと言われています。これらは「殺生塚」や「畜生塚」などと罵られ、「天下の豊臣秀吉に背いた悪人」というイメージを付けられた豊臣秀次の死を弔う者はほとんどいませんでした。
その後、1611年(慶長16年)に「水運の父」と称される豪商「角倉了以」(すみのくらりょうい)による治水工事の際に、洪水で流されていた石塔が発見されると、江戸幕府に了承を得た上で、豊臣秀次の菩提寺として「瑞泉寺」(ずいせんじ:京都府京都市)が建立されました。
このとき、角倉了以は「秀次悪逆」と刻まれた部分を削り、改修して新たな石塔を造り上げています。江戸時代初期に建てられた供養塔は現存しており、瑞泉寺は豊臣秀次と一族・家臣の菩提寺として、400年以上の歴史を刻み続けています。