家系図・年表

藤原頼嗣の家系図・年表
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藤原頼嗣の家系図・年表 藤原頼嗣の家系図・年表
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「藤原頼嗣」(ふじわらのよりつぐ)は、鎌倉幕府第5代征夷大将軍。第4代将軍であった「藤原頼経」(ふじわらのよりつね)の嫡子です。藤原頼嗣は、将軍という肩書きを持ってはいましたが、その実体は北条氏が支配。父・藤原頼経が北条氏との関係悪化で将軍職を追われたため、急遽、譲られる形で将軍になったのはわずか6歳のことです。さらに父が北条氏の得宗(とくそう/とくしゅう:北条氏のなかでも執権を出せる家)への反意ありとされて更迭されると、藤原頼嗣も14歳で将軍職を解かれました。周囲の都合で将軍として置かれ、手腕を発揮できぬまま追われた藤原頼嗣はどのような人物だったのでしょうか。藤原頼嗣の生涯について年表形式で振り返るとともに、家系図をもとに血縁関係を探ります。

藤原頼嗣の家系図

藤原頼嗣」(ふじわらのよりつぐ)は、18歳で流行病により早世しました。そのため子がなく、後継の将軍には皇族の「宗尊親王」(むねたかしんのう:後嵯峨上皇の皇子)が選ばれたのです。

このため藤原頼嗣と家系図で繫がる縁者は限られていますが、なかでも重要人物をピックアップしてご紹介します。

藤原頼嗣の家系図

藤原頼嗣の家系図

藤原頼経

藤原頼経

藤原頼経

藤原頼経」(ふじわらのよりつね)は、藤原頼嗣の父で鎌倉幕府第4代征夷大将軍

第3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)までは、初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)直系の血筋でしたが、源実朝に子がなく直系が途絶えたため、摂家(せっけ:公家のなかでも、朝廷の高官である摂政関白を出せる家柄)から迎えられたのが藤原頼経です。

将軍就任当初は若く、実権はほぼ北条氏が掌握。しかし、藤原頼経は成長するにつれ徐々に自身の考えを抱くようになります。

当時、北条氏は同族のなかでも執権を出せる得宗家とそれ以外の分家が分裂し、にらみ合っていました。藤原頼経は反得宗の北条氏と接近し、これを良く思わない得宗の一派により、将軍職を解かれます。

将軍を解任されたあとも大殿(おおとの:家督を譲った先代)として幕府内に影響力を残していましたが、ほどなく出家させられたのです。最期は流行病にかかり逝去。周囲の意に流され続けた人生でした。

西園寺公経

「西園寺公経」(さいおんじきんつね)は公卿(くぎょう:朝廷の高官を務める公家)であり、藤原頼嗣から見ると曾祖父にあたります。

妻が源頼朝の同母妹「坊門姫」(ぼうもんひめ)の娘であったことから鎌倉幕府との距離は近く、藤原頼嗣の父・藤原頼経を将軍後継者とする運動の中心人物でした。

藤原頼経が将軍になったことで鎌倉幕府との関係性はより深まり、幕府と朝廷の調整役を務めて地位を固めていきます。また、宋(そう)との貿易により多大な富を貯えることにも成功。

この時代には敵を作り、失脚する有力者が多かったなかで地位を守り抜いた西園寺公経ですが、保身と欲のために幕府に追従した世渡り上手な人物であったと評されています。

掄子

「掄子」(りんし)は、西園寺公経の子で藤原頼経の母。藤原頼嗣の祖母にあたります。母が源頼朝の同母妹である坊門姫の娘であることから、源頼朝の直系が3代で途絶えた鎌倉幕府にとって、源頼朝の血を引く貴重な人物。

なお、夫である「九条道家」(くじょうみちいえ)も母が坊門姫の娘であったことから、やはり源頼朝の血を引いていました。

掄子が産んだ藤原頼経以外の子は、男児の「九条教実」(くじょうのりざね)、「二条良実」(にじょうよしざね)、「一条実経」(いちじょうさねつね)がいずれも摂政や関白に出世。女児も中宮(ちゅうぐう:天皇の妻)や尚侍(ないしのかみ/しょうじ:天皇の側仕え)になるなど、子はいずれも一定の地位を得ています。

しかし、藤原頼経が将軍職を解かれると、夫の九条道家も関東申次(かんとうもうしつぎ:院と幕府の連絡役)の役職を罷免され、出家。掄子も夫のすぐあとに出家しました。

源頼家

源頼家」(みなもとのよりいえ)は、鎌倉幕府第2代征夷大将軍。藤原頼嗣から見ると祖父にあたります。

源頼家は、父である源頼朝が急逝し、地盤を固めている最中の鎌倉幕府で2代目の将軍職という重責を若くして担うことになりました。

しかし、生まれたときから将軍職を約束され、苦労を知らぬままに成長したこともあり、将軍になると鎌倉幕府を我が物であるかのように独裁的にふるまったのです。

これに危機感を覚えた源頼家の母「北条政子」(ほうじょうまさこ)らにより、源頼家の独裁を止めるため、有力御家人が政務に携わる制度「13人の合議制」が導入されました。源頼家は反発しますが、病気療養中にまだ存命であるにもかかわらず死去したことにされ、将軍職から追放。病気から回復した頃には、弟の源実朝が将軍になっていました。そして、出家させられたあげく、刺客の手にかかり命を落としたのです。

藤原頼嗣の年表

藤原頼嗣はわずか6歳で鎌倉幕府第5代征夷大将軍に就任。しかし、14歳で将軍職を解任され、その後18歳でこの世を去ってしまいました。

ここでは、年表形式で藤原頼嗣の人生を振り返り、18年の短い生涯でどのようなことが起こったのかを見ていきましょう。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1239年(暦仁2年/
延応元年)
1
鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経の子として誕生。
1242年(仁治3年/
正治元年)
4
後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が即位する。
1243年(仁治4年/
寛元元年)
5
鎌倉大仏が建立。
1244年(寛元2年) 6
6歳で元服(げんぷく:成人の儀式)。
父・藤原頼経が将軍職を譲る形で鎌倉幕府第5代征夷大将軍となる。
1245年(寛元3年) 7
鎌倉幕府第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の妹である檜皮姫(ひわだひめ)を妻に迎える。
1246年(寛元4年) 8
父・藤原頼経が幕府への反乱を企てたとして、鎌倉から京都へ追放される宮騒動(みやそうどう)が起こる。
後嵯峨天皇が皇子・久仁親王(ひさひとしんのう)に譲位し、後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)になる。
1247年(寛元5年/
宝治元年)
9
檜皮姫が死去。
執権・北条氏と有力御家人・三浦氏が対立した幕府の内乱・宝治合戦(ほうじがっせん)が起こる。
1251年(建長3年) 13
後嵯峨上皇の第一皇子、宗尊親王(むねたかしんのう)を新たな将軍にすることを幕府が決定。
1252年(建長4年) 14
将軍職を解任され京都に送還される。
宗尊親王が正式に鎌倉幕府第6代征夷大将軍となり、皇族将軍(こうぞくしょうぐん)が誕生。
1256年(建長8年/
康元元年)
18
父・藤原頼経が病にかかり、死去。
翌月、藤原頼嗣も同様に病が原因となり命を落とす。

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