北条家の系譜のひとつに名越流(なごえりゅう)北条氏があり、得宗(とくそう:北条一族の惣領)北条氏と対立していました。名越流の祖となるのが鎌倉幕府2代執権「北条義時」(ほうじょうよしとき)の子「北条朝時」(ほうじょうともとき)。北条氏が執権として力を付けて勢い増すなか、11歳で正室であった母を失い、後継ぎの座も側室の子である兄に奪われてしまいます。北条朝時が北条氏の一員として生きながらも、反対勢力を形成していった経緯やその生涯、兄弟との関係や現代に伝わる逸話について見ていきましょう。
「北条朝時」(ほうじょうともとき)は、1193年(建久4年)に「北条義時」(ほうじょうよしとき)の次男として誕生。
11歳年上の異母兄「北条泰時」(ほうじょうやすとき:のちの鎌倉幕府3代執権)がいたため、正室が生んだ長男であるにもかかわらず跡継ぎとして扱われませんでした。
祖父であり初代執権を務めた「北条時政」(ほうじょうときまさ)からは「名越邸」(神奈川県鎌倉市)を相続。しかし、女性問題を理由に父・北条義時によって駿河国(現在の静岡県中部、北東部)へ蟄居(ちっきょ:外出禁止)させられたのです。
そののち、「和田合戦」(わだがっせん:鎌倉幕府内で起きた御家人・和田義盛[わだよしもり]の反乱)を機に鎌倉へ呼び戻された北条朝時は、負傷しながらも活躍します。さらに、1221年(承久3年)に起きた「承久の乱」(じょうきゅうのらん:後鳥羽上皇による鎌倉幕府への討伐)でも、大将軍として北陸道軍40,000騎を率いて出陣。越中国(現在の富山県)「越中宮崎城」(えっちゅうみやざきじょう:富山県下新川郡朝日町)を落とし、砺波山(となみやま:富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町)における合戦で勝利を収めたのです。
1224年(貞応3年)、北条義時が亡くなり北条泰時が3代執権の座に就任。一方、北条朝時は1225年(嘉禄元年)越後守を任されますが、兄弟仲には壁があったため任命後も反執権勢力に関係し、不穏な動きをしていると疑われていました。そして、1242年(仁治3年)、北条泰時が病に伏すと北条朝時は出家を余儀なくされ、兄が逝去した3年後の1245年(寛元3年)に53歳で亡くなりました。
北条朝時の死後、名越流(なごえりゅう)北条氏は得宗(とくそう:北条一族の惣領)北条氏と対立。北条朝時の息子達が、「宮騒動」(みやそうどう:嫡男・北条光時[ほうじょうみつとき]らによる反乱未遂事件)や「二月騒動」(にがつそうどう:北条朝時の三男・北条教時[ほうじょうのりとき]らの謀反)といった謀反を企て、流罪や討ち取られたりしました。
北条朝時の母は、当時勢いを伸ばしていた比企氏から北条義時へ嫁ぎ、「姫の前」(ひめのまえ)と呼ばれていました。
母・姫の前は、鎌倉幕府の開祖「源頼朝」(みなもとのよりとも)の邸宅である「大倉御所」(神奈川県鎌倉市)に勤める女官でしたが、北条義時が熱烈に求婚。その結果、源頼朝が仲介してようやく結婚できたのです。
しかし、1203年(建仁3年)北条氏と比企氏の対立が激化。「比企能員の変」(ひきよしかずのへん:北条時政による比企能員と比企一族への粛清[しゅくせい])が起き、比企一族は滅ぼされてしまいます。
この流れの中で、姫の前は北条義時と離婚。北条一族と袂を分かつことになったと言われています。その後、京都で公家「源具親」(みなもとのともちか)と再婚。子どもを授かりましたが、結婚して3年ほどで死去。のちに北条朝時は、異父弟とされる「源輔時」(みなもとのすけとき)を猶子(ゆうし:養子)としたのです。