「足利義輝」(あしかがよしてる)は、室町幕府の第13代征夷大将軍であり、第12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)の子。当時、将軍の嫡男は政所(まんどころ:領地や財政などを管理する役職)の頭人(とうにん:長官)に育てられる習慣がありましたが、足利義輝は、父が何度か幕臣と対立し、そのたびに都を逃れるのに従っていたため、例外的に両親のもとで育てられました。足利義輝の人生は、なかなか一所に落ち着くことができない慌ただしさでしたが、将軍になると諸大名間の抗争を調停したり、有力大名を任官したりと手腕を発揮したのです。足利義輝の人生を年表にまとめ、血縁の人物紹介とともに振り返ります。
「足利義晴」(あしかがよしはる)は室町幕府の第12代征夷大将軍で、足利義輝の父。足利義晴が将軍になった頃は、将軍の後継者争いが全国に波及した「応仁の乱」(おうにんのらん)の影響を引きずっており、幕府は弱体化していました。一方、管領(かんれい:将軍の補佐職)の「細川晴元」(ほそかわはるもと)の影響力が増大しており、将軍の権威も揺らいでいたのです。
足利義晴は、幕府と将軍の権威を復活させようとして細川晴元と対立。足利義晴は、細川晴元との仲がこじれるたびに出奔(しゅっぽん:逃げて身を隠すこと)を繰り返しました。
息子の足利義輝に将軍職を譲った足利義晴は、ついに細川晴元と和解します。ところが、今度は細川晴元とその家臣だった「三好長慶」(みよしながよし)が敵対したため、足利義晴と足利義輝は親子で都から逃げ延びました。足利義晴は都へ戻ることを画策しますが、叶わぬまま病でこの世を去ったのです。
「足利義昭」(あしかがよしあき)は室町幕府の最後の将軍となる第15代征夷大将軍で、足利義輝の弟。兄の足利義輝が父の後継者と決まると、足利義昭は後継者争いを避けるために出家していました。
足利義輝に仕えていた「松永久秀」(まつながひさひで)は、幕府の実権を握るため足利義輝を暗殺。足利義昭も足利義輝の弟ということで幽閉されましたが、兄の家臣だった者達の協力で脱出したのです。
幕府の復興を目指す足利義昭は、織田信長の力を借りて上洛。恩人である織田信長に感謝をして良好な関係を築きますが、ほんの数ヵ月で不仲になりました。しかし、圧倒的な力を得ていた織田信長にかなわず足利義昭は都を追われ、そのまま長年にわたり都に戻ることはできなかったのです。
足利義昭がようやく都に戻ったのは、織田信長が「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で亡くなったあとのこと。出家した足利義昭は朝廷に将軍を返上し、室町幕府は終焉を迎えました。
「足利義維」(あしかがよしつな)は室町幕府第11代将軍「足利義澄」(あしかがよしずみ)の子。父・足利義澄は第10代将軍「足利義材」(あしかがよしき)に追放され、守護大名「六角高頼」(ろっかくたかより)のもとに身を寄せます。
しかし、六角高頼が密かに足利義材と通じているとの噂を耳にした足利義澄は、息子の足利義維を守護大名「赤松義村」(あかまつよしむら)のもとへ送り、足利義維は赤松義村に庇護されて育ったのです。
のちに管領と対立した足利義材が出奔し、代わって足利義晴が第12代将軍に就任。都から逃げた足利義材は、後継者がなかったため対立相手の子だった足利義維を養子にしました。
やがて足利義晴が、幕府の管領職を務める細川家の抗争に巻き込まれて都から追われると、足利義維が将軍候補として擁立されます。しかし、朝廷が足利義晴と良好な関係だったため、足利義維は将軍に任命されませんでした。足利義維は将軍の肩書きがないまま実質的な支配者として堺(現在の大阪府大阪市)を拠点にしたため、「堺公方」(さかいくぼう)と呼ばれるようになります。
将軍の肩書きを得られなかった足利義維の悲願は、のちに息子「足利義栄」(あしかがよしひで)が果たすことになるのです。
足利義栄は室町幕府の第14代征夷大将軍で、足利義維の子。第13代将軍の足利義輝が「永禄の変」(えいろくのへん)で殺害されると、主犯である大名「三好義継」(みよしよしつぐ)らにより足利義栄が将軍候補として擁立されます。足利義栄は将軍就任のため都へ向かいますが、時を同じくして織田信長に擁立された足利義昭も将軍就任を目指していたのです。
足利義栄は摂津国富田(せっつのくにとんだ:現在の大阪府高槻市)まで辿り着き、将軍宣下(しょうぐんせんげ:天皇が征夷大将軍を任命する儀式)を受けて正式に将軍となりました。しかし、足利義栄が将軍候補になることを後押しした三好義継が、足利義昭と織田信長の陣営に鞍替えするなど不安要素が尽きません。
やがて、勢いを付けた織田信長の軍勢が摂津国に辿り着きます。織田信長が三好家の居城「芥川山城」(あくたがわやまじょう:大阪府高槻市)を落とすと、足利義栄陣営は急速に弱体化。足利義栄は立て直しができぬまま、病でこの世を去りました。
足利義輝は、室町幕府の第12代征夷大将軍・足利義晴の子として生まれ、都を追われた父とともに逃亡生活の末、第13代将軍になります。その後、30歳で殺害されてしまいますが、どのような人生を歩んだのでしょうか。ここでは年表形式で、足利義輝の生涯に起こった出来事をご紹介します。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1536年(天文5年) | 1歳 |
足利義晴と慶寿院(けいじゅいん)の子として生まれる。
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1546年(天文15年) | 11歳 |
元服(げんぷく:成人になる儀式)し、父・足利義晴から将軍職を譲り受けて、室町幕府第13代征夷大将軍になる。
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1549年(天文18年) | 14歳 |
江口の戦い(えぐちのたたかい)。管領・細川晴元の家臣、三好長慶と三好政長が対立し、武力衝突。三好政長が敗れ、三好政長側だった細川晴元と足利義輝と父・足利義晴は都をあとにする。
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1550年(天文19年) | 15歳 |
父の足利義晴が病により亡くなる。
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1552年(天文21年) | 17歳 |
三好長慶と和睦を結んで都に戻り、三好長慶を幕臣に迎える。
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1553年(天文22年) | 18歳 |
側近が反・三好派と親・三好派に分かれて対立。足利義輝は三好長慶との和睦を破棄して対戦するも、敗れて都を出る。
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1558年(弘治4年/ 永禄元年) |
23歳 |
挙兵し、再び三好長慶に戦いを挑むも膠着状態が続く。その後、和睦が成立し、都に戻る。大陽院(だいよういん)と結婚する。
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1560年(永禄3年) | 25歳 | |
1561年(永禄4年) | 26歳 | |
1562年(永禄5年) | 27歳 |
嫡子・輝和丸(てるわかまる)が生まれるも、数ヵ月後に死去。
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1564年(永禄7年) | 29歳 |
三好長慶が病により死去。三好義継が三好家を継ぐ。
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1565年(永禄8年) | 30歳 |
永禄の変。三好義継に殺害される。
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