どうする家康に登場する人物

鳥居元忠
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鳥居元忠 鳥居元忠
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「鳥居元忠」(とりいもとただ)は、「徳川家康」の幼少時代から側近くに仕えた武将です。天下分け目の「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「伏見城の戦い」では、捨て石となって討ち死。2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、「音尾琢真」(おとおたくま)さんが演じました。鳥居元忠の生涯や逸話などについてご紹介しましょう。

大河ドラマ歴史年表(歴代別/時代別)
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大河ドラマ どうする家康
どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

鳥居元忠の生涯

鳥居元忠

鳥居元忠

鳥居氏は、先祖代々から徳川家康の生家である、三河国(現在の愛知県東部)の松平氏に仕えた一族です。

武士ながら商才のある一族で、財力を持っており、人質時代の徳川家康に衣類などを送って支援しました。

鳥居元忠は、1539年(天文8年)に「鳥居忠吉」(とりいただよし)の三男として誕生。

幼名は「鶴之助」です。長兄が戦死すると、次兄が出家していたため三男の鳥居元忠が家を相続することになりました。

13歳で徳川家康に仕え、常に付き従う

鳥居元忠は13歳のとき、10歳の徳川家康に仕え始めます。当時の徳川家康は、駿府(すんぷ:現在の静岡県中部)の戦国武将「今川義元」(いまがわよしもと)のもとで人質生活を送っており、鳥居元忠も駿府で暮らしたのです。

そして1558年(弘治2年/永禄元年)、15歳の徳川家康と18歳の鳥居元忠は、三河国「寺部城」(てらべじょう:愛知県豊田市)攻めで、ともに初陣を飾ります。それ以降、徳川家康が出陣する合戦には常に側近くに鳥居元忠が付き従い、数々の武功を挙げました。

関ケ原の戦いで捨て石となる

1600年(慶長5年)8月、関ヶ原の戦いの前哨戦として、「石田三成」(いしだみつなり)は「伏見城」(ふしみじょう:京都府京都市伏見区)を攻撃。

徳川家康は事前に伏見城が捨て城となることを予測し、鳥居元忠に伏見城を守らせました。鳥居元忠もそのことを理解した上で、自ら捨て石となって孤軍奮闘。鳥居元忠は10日以上に亘って敵軍を足止めし、最期は自刃して果てたのです。

鳥居元忠の逸話

三河武士は「犬のような忠誠心を持つ」と言われ、鳥居元忠はその典型のような人物だったとされています。どんなときにも徳川家康に忠節を尽くし、主君に敵対する者は絶対に許さない人物でした。とりわけ鳥居元忠は、少年時代から常に徳川家康の側近くに仕えていたので、逸話も少なくありません。

親子2代の忠臣として

徳川家康

徳川家康

徳川家康は8歳のときに「岡崎城」(愛知県岡崎市)の城主という身分のまま今川氏の人質となり、領地は今川氏に管理されていました。

このとき、岡崎の地で横暴な今川氏の城代と駆け引きしながら、徳川家康の将来のために隠し財産を蓄えていたのが鳥居元忠の父・鳥居忠吉でした。

つまり、鳥居忠吉は徳川家康が留守の間、主家の財産を守ってきた実力者だったというわけです。その子・鳥居元忠は、他の三河武士から一目置かれる存在だったため、調子に乗っていた時期がありました。それを表しているのが、小鳥の百舌鳥(もず)にまつわるエピソードです。

父に臣下の心得を説かれる

ある日、幼かった徳川家康が百舌鳥を鷹に見立てて遊び、鳥居元忠にも同じようにしてみよと命令。鳥居元忠は、自分に鷹匠の真似をさせるのかと内心ムッとして、百舌鳥をいい加減に扱います。すると徳川家康は怒り、鳥居元忠を縁側から突き落としたのです。周囲の者は「そのような手荒なことをしては…」と徳川家康を諫めました。

しかし、鳥居元忠の父・鳥居忠吉は「若殿が百舌鳥を鷹のように扱えと命じたのに、いい加減に扱うから折檻されたのだ。それに不満そうな顔をするなどもってのほか。教えたことを忘れたのか」と逆に鳥居元忠を叱ります。

鳥居忠吉は常日頃から鳥居元忠に対し「君、君たらずとも、臣、臣たれ」と教えていました。これは「たとえ主君が道を踏み外した振る舞いをしても、家臣は臣下の道をたがえてはならない」という意味。鳥居忠吉には鳥居元忠の振る舞いが臣下の道から外れたように見えたのです。

忠臣は二君に仕えずと豊臣秀吉の叙位を辞退

幼少期に父から臣下の道を諭された鳥居忠吉は、それ以来、二心無く徳川家康に仕えます。1586年(天正14年)、徳川家康が「豊臣秀吉」に臣従した際、鳥居元忠は同行しました。豊臣秀吉は勇猛な鳥居元忠を高く評価し、官位を与えようとします。

しかし、鳥居元忠は「私は不調法者でございますので、二君に仕えるような器用なことはできません」と官位を断りました。鳥居元忠の忠誠心を表すエピソードのひとつです。

徳川家康との別れの杯

徳川家康は関ヶ原の戦いを前に、戦を自分の思い通りに運んで天下を狙うため、伏見城を犠牲にする必要があると考えます。そのため、伏見城には、絶対に降伏することなく逃げることもなく戦ってくれる家臣を置く必要がありました。そこで選ばれたのが、鳥居元忠です。

1600年(慶長5年)6月、伏見城で別れの宴が開かれます。皆が伏見城に立てこもる意味を理解しており、徳川家康は一人ひとりに酒を注ぎながら、少ない兵力しか残せないことを詫びました。伏見城の兵は約1,800人。後日、攻めてきた石田三成方の兵は約93,000人と明らかに不利な状況だったのです。

鳥居元忠は、詫びる徳川家康に「死にゆく城に多数の兵を残すことはない」と答え、ふたりは幼少の頃からの思い出話をしながら、別れの杯を交わしました。徳川家康は涙ながらに「すまぬ、許せ」と鳥居元忠達に手を突き、立ち去る間際も「元忠、すまぬ」と謝罪。鳥居元忠は、何も言わずに平伏して見送ったのです。

鳥居元忠の遺書

死を覚悟して息子に書き送った武士の道

鳥居元忠は伏見城で討ち死にする前、息子の「鳥居忠政」(とりいただまさ)へ遺書を書き送りました。その冒頭で、死を覚悟の上で落城が決まっている伏見城に立てこもる決断について「もののふの道」であると述べ、武士として至極当然なことだと記しています。

さらに鳥居元忠は「主君・徳川家康の家風は、守るべき城を捨てて難を逃れたり、命を惜しんで敵前に醜態を晒したりしない。鳥居家は先祖代々、そんな松平氏に仕えてきた家柄だ。そのため自分も一生の間、異心を抱くことなくご奉公申している」と綴りました。

また、主君に深い恩義を感じており「このかたじけなさ、幾代を重ねるとも忘れるべきではない」とも記しています。

子々孫々まで他家に仕えてはならぬと遺言

次に、鳥居元忠は自分が討ち死にしたあとのことについて記しました。息子の鳥居忠政に対しては、幼い弟らを愛育するように願い、弟らには兄を父と思って決して逆らってはいけないと伝えたのです。

また、成人したのちはそれぞれ徳川家康に奉公し、「他家にはいかなることがあろうと仕えぬ」との決意を忘れてはいけないと説いています。

さらに、「たとえ、日本中ことごとくが上様の敵となろうとも、われらが子々孫々は未来永劫、他家に抱えられるようなことがあってはならない」と遺言。そして、「自分は幼少の頃からどんなときにも武勇の名を汚したことは、ただの一度もなかった」と言い切ったのです。

徳川家康の天下統一を予言

続けて鳥居元忠は、将来、徳川家康が天下を手に入れると予言。「上様のお取り立てによって大名にでも出世しようと願い、奉公する者も出てくることであろう」と記しています。

しかし、官位をもらおう、大名になろうと思ってする奉公では、武功をたてることなどできず、武門の名を汚してしまうと言ったのです。

そして遺書の終わりには、鳥居家の者ならば「まず、日常の行動をつつしみ、礼儀正しくし、主従が相和して下々をあわれみ、賞罰の軽重をあやまることなく、えこひいきの沙汰をせぬこと」と書きました。さらに「およそ人の人たる道は[まこと]をもって貫くことにある。これより他に申しおくことは、もはやないのである」と結んでいます。

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