「鳥居元忠」(とりいもとただ)は、「徳川家康」の幼少時代から側近くに仕えた武将です。天下分け目の「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「伏見城の戦い」では、捨て石となって討ち死。2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、「音尾琢真」(おとおたくま)さんが演じました。鳥居元忠の生涯や逸話などについてご紹介しましょう。
三河武士は「犬のような忠誠心を持つ」と言われ、鳥居元忠はその典型のような人物だったとされています。どんなときにも徳川家康に忠節を尽くし、主君に敵対する者は絶対に許さない人物でした。とりわけ鳥居元忠は、少年時代から常に徳川家康の側近くに仕えていたので、逸話も少なくありません。
ある日、幼かった徳川家康が百舌鳥を鷹に見立てて遊び、鳥居元忠にも同じようにしてみよと命令。鳥居元忠は、自分に鷹匠の真似をさせるのかと内心ムッとして、百舌鳥をいい加減に扱います。すると徳川家康は怒り、鳥居元忠を縁側から突き落としたのです。周囲の者は「そのような手荒なことをしては…」と徳川家康を諫めました。
しかし、鳥居元忠の父・鳥居忠吉は「若殿が百舌鳥を鷹のように扱えと命じたのに、いい加減に扱うから折檻されたのだ。それに不満そうな顔をするなどもってのほか。教えたことを忘れたのか」と逆に鳥居元忠を叱ります。
鳥居忠吉は常日頃から鳥居元忠に対し「君、君たらずとも、臣、臣たれ」と教えていました。これは「たとえ主君が道を踏み外した振る舞いをしても、家臣は臣下の道をたがえてはならない」という意味。鳥居忠吉には鳥居元忠の振る舞いが臣下の道から外れたように見えたのです。
幼少期に父から臣下の道を諭された鳥居忠吉は、それ以来、二心無く徳川家康に仕えます。1586年(天正14年)、徳川家康が「豊臣秀吉」に臣従した際、鳥居元忠は同行しました。豊臣秀吉は勇猛な鳥居元忠を高く評価し、官位を与えようとします。
しかし、鳥居元忠は「私は不調法者でございますので、二君に仕えるような器用なことはできません」と官位を断りました。鳥居元忠の忠誠心を表すエピソードのひとつです。
徳川家康は関ヶ原の戦いを前に、戦を自分の思い通りに運んで天下を狙うため、伏見城を犠牲にする必要があると考えます。そのため、伏見城には、絶対に降伏することなく逃げることもなく戦ってくれる家臣を置く必要がありました。そこで選ばれたのが、鳥居元忠です。
1600年(慶長5年)6月、伏見城で別れの宴が開かれます。皆が伏見城に立てこもる意味を理解しており、徳川家康は一人ひとりに酒を注ぎながら、少ない兵力しか残せないことを詫びました。伏見城の兵は約1,800人。後日、攻めてきた石田三成方の兵は約93,000人と明らかに不利な状況だったのです。
鳥居元忠は、詫びる徳川家康に「死にゆく城に多数の兵を残すことはない」と答え、ふたりは幼少の頃からの思い出話をしながら、別れの杯を交わしました。徳川家康は涙ながらに「すまぬ、許せ」と鳥居元忠達に手を突き、立ち去る間際も「元忠、すまぬ」と謝罪。鳥居元忠は、何も言わずに平伏して見送ったのです。
鳥居元忠は伏見城で討ち死にする前、息子の「鳥居忠政」(とりいただまさ)へ遺書を書き送りました。その冒頭で、死を覚悟の上で落城が決まっている伏見城に立てこもる決断について「もののふの道」であると述べ、武士として至極当然なことだと記しています。
さらに鳥居元忠は「主君・徳川家康の家風は、守るべき城を捨てて難を逃れたり、命を惜しんで敵前に醜態を晒したりしない。鳥居家は先祖代々、そんな松平氏に仕えてきた家柄だ。そのため自分も一生の間、異心を抱くことなくご奉公申している」と綴りました。
また、主君に深い恩義を感じており「このかたじけなさ、幾代を重ねるとも忘れるべきではない」とも記しています。
次に、鳥居元忠は自分が討ち死にしたあとのことについて記しました。息子の鳥居忠政に対しては、幼い弟らを愛育するように願い、弟らには兄を父と思って決して逆らってはいけないと伝えたのです。
また、成人したのちはそれぞれ徳川家康に奉公し、「他家にはいかなることがあろうと仕えぬ」との決意を忘れてはいけないと説いています。
さらに、「たとえ、日本中ことごとくが上様の敵となろうとも、われらが子々孫々は未来永劫、他家に抱えられるようなことがあってはならない」と遺言。そして、「自分は幼少の頃からどんなときにも武勇の名を汚したことは、ただの一度もなかった」と言い切ったのです。
続けて鳥居元忠は、将来、徳川家康が天下を手に入れると予言。「上様のお取り立てによって大名にでも出世しようと願い、奉公する者も出てくることであろう」と記しています。
しかし、官位をもらおう、大名になろうと思ってする奉公では、武功をたてることなどできず、武門の名を汚してしまうと言ったのです。
そして遺書の終わりには、鳥居家の者ならば「まず、日常の行動をつつしみ、礼儀正しくし、主従が相和して下々をあわれみ、賞罰の軽重をあやまることなく、えこひいきの沙汰をせぬこと」と書きました。さらに「およそ人の人たる道は[まこと]をもって貫くことにある。これより他に申しおくことは、もはやないのである」と結んでいます。