本来は武器である日本刀が、美術品や贈り物としても注目されるようになった江戸時代、本阿弥家(ほんあみけ)が刀の作者や価値を鑑定した証明書である折紙(おりがみ)を発行。その折紙は刀剣界以外でも広く知られ、「折紙つき」という言葉の由来にもなりました。しかし、甲冑の分野でも同様に折紙が出されていた事実はあまり知られていません。甲冑の折紙について解説します。
折紙(おりがみ)とは、もともと奉書紙(ほうしょがみ)や檀紙(だんし)などの高級和紙を横に2つ折りにした物を指す言葉。当初は、紙を折らずに広げたまま用いる竪紙(たてがみ)に比べて略式な物とされましたが、時代とともに使用例が増え、折紙は命令や贈り物の内訳を記した目録用紙として一般化しました。江戸時代、刀剣界では本阿弥家(ほんあみけ)が鑑定証明書として折紙の様式を整え、発行を一手に担ったことは大変有名です。
そして、甲冑についても折紙が発行されることがありました。それはどんな物だったのでしょうか。また、どんな人達が作成・発行していたのでしょうか。さっそく以下の例を見ていきましょう。
これは、鉄黒漆塗桶側菱綴二枚胴具足(てつくろうるしぬりおけがわひしとじにまいどうぐそく:刀剣ワールド財団/東建コーポレーション 所蔵)に付属する折紙です。横に2つ折り、縦に3つ折りにした檀紙に大小様々な言葉や文言が並びます。折紙の内容は、鑑定した部品とその作者名、次に部品の価値、最後に鑑定者の名前と鑑定の日付に大きく分かれます。
最初の行(①)の「面鎧」は面頬(めんぽお/めんぼお)のことです。
次の3行(②)は「神功皇后臣武内宿祢宗徳三十二代末 中興増田明珍祖出雲守紀宗介 十代嫡孫」とあり、これは「神功皇后[じんぐうこうごう]に仕えた武内宿禰[たけのうちのすくね]から32代目にあたる人物である、増田/明珍宗介[ますだ/みょうちんむねすけ]からさらに10代目の子孫」という意味で、作者名「宗安」にかかります。
その下の「号兵衛佐 住一条堀川」は、宗安の通称は兵衛佐(ひょうえのすけ)で京都の堀川に住んでいたことを示します。
③「正作 嘉慶之比」は、嘉慶(かけい)年間にこの面頬が作られたという意味。嘉慶は南北朝時代に北朝側が用いた元号で、1387年から1389年までの期間にあたります。
後半の④「隆武烈勢面精錬珍奇面頬也」は、鑑定した面頬が隆武烈勢面(りゅうぶれっせいめん)という形式であることを記し、「精錬珍奇」はその鍛えを称賛する意味の語。そして刀剣の折紙と同様に⑤「代黄金三十枚」と価値を明示した代付が記されます。
最後には面頬の鑑定を行い、この折紙を発行した人物の情報が載ります。⑥「於武江御城下極之」は「ぶこうごじょうかにおいてこれをきわむ」と読み、武江御城は江戸城(東京都千代田区)のこと。すなわち江戸の町において「極」(きわみ:鑑定のこと)を行ったという意味です。「武内宿祢五十五世嫡裔」は武内宿禰から55代目の子孫で、鑑定者である「日本唯一甲冑良工 増田明珍大隅守 紀宗正」を修飾する言葉になります。「紀」のそばには印鑑、「宗正」の下には花押(かおう)が押されます。
⑦「惟時 元文三戊午年 二月吉辰」は鑑定した年月日で、元文3年2月は1738年3~4月に該当します。
以上のことをまとめると、この面頬は、武内宿祢から42代目の子孫である明珍宗安(みょうちんむねやす)が南北朝時代の嘉慶年間に制作した隆武烈勢面形式の面頬であり、黄金30枚分の価値があるということを、武内宿祢から55代目の子孫「明珍宗正」(みょうちんむねまさ)が江戸の町において、元文3年2月に鑑定したという内容が折紙に記されていることが分かります。
しかし、この鑑定された面頬の実際の制作時代は、折紙にある南北朝時代ではなく明らかに江戸時代です。つまり折紙の内容は正確でないどころか、現代の観点からは虚偽を書いていると言わざるを得ません。それでは、鑑定者の明珍宗正という人物は誰か、なぜこのような鑑定をしたのでしょうか。
この鑑定折紙を発行した明珍宗正は、江戸時代中期の甲冑師で、江戸明珍家の当主でもあった人物。「明珍」と言えば甲冑師の有力流派として特に名高く、江戸明珍家はその本家として江戸を拠点に活動していました。
明珍派はもともと鉄を鍛えて製品を作る鍛冶(かじ)から始まった甲冑師の流派。室町時代の記録に、馬具の轡(くつわ)を制作する京都の鍛冶として登場するのが最初です。その後は、兜鉢(かぶとばち)など鉄製の甲冑部品の制作を主に手掛けるようになり、江戸時代になると打出し技術をさらに洗練・発展させていきます。加えて、その本家は日本全国から武士が集う江戸に本拠を移して江戸明珍家となり、各地から弟子を集め修行させて技術を伝えると同時に甲冑鑑定の事業も開始しました。
鑑定折紙は本阿弥家が刀剣、後藤家が刀装具の分野でそれぞれ発行し、古くは江戸時代初期の物が確認されますが、甲冑の折紙はそれらよりも遅い17世紀後半、「明珍邦道」(みょうちんくにみち)の代から登場します。次の代の明珍宗介は折紙の様式をさらに整え、武内宿禰から始まる系図を作成しました。
この前後に氏(うじ)の名乗りも「紀氏」(きし)に定め、平安時代に第76代天皇の「近衛天皇」(このえてんのう)から「明珍」の家名を授かった増田宗介が明珍初代として、自分達には歴史と伝統があると主張。優れた鉄の打出し技術に加え、立派な形式の鑑定折紙と重々しい系図、「日本唯一甲冑良工」の看板により明珍派は名声と権威を高め、甲冑師の代名詞とも言える存在になったのです。
今回紹介した鑑定折紙を発行した明珍宗正は、明珍邦道から2代後の江戸明珍家当主ですが、何らかの事情があったようで本業の甲冑制作に携わった形跡はみられません。代わりに鑑定業に力を注いだようで、先代の明珍宗介が作成した系図に続き、明珍派の歴代甲冑師の兜鉢や面頬の図を並べて掲載した「名甲図鑑」(めいこうずかん)を著しました。しかし、鑑定の内容はいい加減で信用できないと後世の人からは批判されています。
明珍派の鑑定業は、好意的に見れば現代で言うところのブランド化に近いものと言えるでしょう。しかし先述した、江戸時代に作られた面頬を南北朝時代の作品と記している折紙の内容は、正確でないどころか虚偽の鑑定を行っていると言わざるを得ません。
武内宿禰に始まる明珍派の系図も、信用できる部分は室町時代後期からで、それより古い時代の甲冑師は創作された人物だったり、本来は明珍派と無関係の職人を先祖として組み込んだり分家の一員として扱ったりと、自派を大きく見せるための誇張や捏造が多く混ざっているということが研究者から指摘されています。
現代の価値観や制度に照らせば、明珍派の鑑定や系図作成には問題があると思われるかもしれません。けれども、江戸時代には武家に限らず、農民や職人、商人などあらゆる身分や職業の人々が、明珍派と似通った内容の「由緒」(ゆいしょ)を作り上げ、機会のあるごとに主張していたことが、歴史学の研究により明らかにされてきています。
由緒には、「物事の始まりや経歴」といった意味がありますが、その多くは自分達の先祖、家柄や職業が古くにさかのぼり、天皇や公家、将軍など高貴な権力者とつながり、栄誉や特権を与えられていたという話が中心。現代からみれば、事実と虚構が入り交ざったものが多く批判されることもありますが、江戸時代の人々は、自分達の利益を守るため、また他者との争いに勝ち抜くため、こうした由緒を子孫や後継者に伝えていったのです。
江戸時代の甲冑師の主な流派には、明珍派の他に岩井派や春田派もありましたが、これら2派は江戸幕府に抱えられ、地位が保障されていた点で明珍派より優位にありました。江戸明珍家が系図を編んで鑑定折紙を発行したのは、自分達の勢力を維持拡大するために壮大な由緒を作り上げる必要があると考えたからなのでしょう。
19世後半の日本は、明治維新を迎えて武士の時代が終焉。甲冑は刀剣同様に兵器としての役目を終え、純然たる美術工芸品として見られるようになります。学問の世界では、西洋の近代的な歴史学が入ったことで、それまでの日本史についての常識も見直されていきます。甲冑の分野では、近代的な研究方法を取り入れた形式分類や変遷の考証が進みました。
現在、明珍派の折紙に代わり、甲冑を審査してその制作時代や作者を鑑定し、保証する活動を行っているのは「一般社団法人日本甲冑武具研究保存会」です。日本甲冑武具研究保存会の主な活動のひとつで、1968年(昭和43年)に始まった「甲冑武具審査会」では、高い専門知識を持った審査委員の協議により、各地から集まった甲冑武具に対して「重要文化資料」から「保存資料」までの5段階の評価が与えられ、それぞれ「認定書」が発行されます。特に最高の重要文化資料に認定された物は、日本甲冑武具研究保存会が発行する「重要文化資料図録」にも収録されます。
甲冑武具審査会で発行される認定書の形式は評価段階ごとに異なりますが、表には鑑定した甲冑武具の写真、評価段階の明記、鑑定日付と鑑定当時の日本甲冑武具研究保存会長の氏名と会長印、評価段階ごとの認定番号が載り、裏に審査委員の氏名が並ぶ点では共通します。
なお、明珍派の折紙と異なり、認定書に金銭的価値は記されませんが、上位3段階の重要文化資料、「甲種特別貴重資料」、「特別貴重資料」の認定書の形式は、横に2つ折り、縦に3つ折りで、この点では明珍派の折紙を受け継いでいると言えるでしょう。
日本甲冑武具研究保存会の認定書の他には、日本甲冑の研究家である「山上八郎」(やまがみはちろう、1902~1980年[明治35年~昭和55年])が昭和時代に発行した鑑定書も時折見られます。
山上八郎は「日本甲冑研究の第一人者」とも呼ぶべき、甲冑界で非常に大きな業績を残した人物です。幼いころから甲冑に強い関心を抱き、早稲田大学在学時には日本各地を訪れて甲冑の調査と研究に没頭。その後は会社勤めのかたわら「日本甲冑の新研究」を執筆し、1928年(昭和3年)に発表します。
近代的な視点から、日本の甲冑の歴史を隅々に至るまで新たに書き起こしただけでなく、用語の整理分類も行った「日本甲冑の新研究」は、甲冑研究の水準を高めたことなどが評価され、翌年に山上八郎は帝国学士院(現在の日本学士院)から最年少の28歳で賞を与えられました。現在の甲冑研究で常識となっている知識や見方も山上八郎が唱えた説の多くを受け継ぎ、あるいはその延長上にあります。
現代を代表する甲冑師であった「明珍宗恭」(みょうちんむねゆき、1917~2011年[大正6年~平成23年])を鍛え育てたことも山上八郎の業績でしょう。明珍宗恭は少年期に父から甲冑の制作技術を教わる一方、山上八郎にも師事して調査旅行に同行、各地の名甲冑に触れました。多感な時期に父、山上八郎、実物の甲冑から学んだ明珍宗恭はそののち、古甲冑の修理や復元を多く行ったのみならず、「黒澤明」(くろさわあきら)監督の映画「七人の侍」、「蜘蛛の巣城」などの衣装甲冑も制作。確かな知識と考証に基づく明珍宗恭の仕事は映画の完成度を高め、多くの人々の目を楽しませました。
山上八郎が発行した鑑定書の多くは日本甲冑武具研究保存会の認定書と異なり、甲冑の形式や外観、装飾の特徴を紙面に書き連ね、最後に制作年代と日付、鑑定した場所、自身の氏名を記した比較的簡素な様式が特徴。
また、山上八郎は研究機関などに属さず在野で甲冑研究を続け、晩年まで甲冑を求めて各地を巡り、旅先で生涯を閉じました。「奇人」とも呼べる山上八郎が残した甲冑の鑑定書は、その型破りな一生を伝える物でもあります。