日本刀に、作刀した刀工が自身の名や年月日などの情報を「銘」(めい)として刻み入れるように、甲冑にも制作にあたった甲冑師が銘を記すことがありました。しかし、様々な部品を組み立てて作る甲冑には、銘が入る可能性のある場所が刀剣に比べて多くあり、また実際に記された銘は、確認が難しい位置にあることが多く、現状ではあまり認知されていません。とは言え、銘は鑑定において制作時期や真贋を判断するための根拠となる重要な存在。甲冑の銘の主な種類、銘が入る場所、銘字の移り変わりなどを紹介します。
甲冑の「銘」(めい)でも、刀剣と同様に作者の名前を入れた銘が最も一般的で、漢字2文字の諱(いみな)が基本。
その上に通称、号や家名、受領銘(ずりょうめい)などを加えて記すことも少なくありません。
なかには名の下に花押が添う例もあります。
甲冑の制作年月日を記した銘で、作者銘と合わせて鑑定の重要基準として扱われますが、その日付はあくまでも銘が入る部位が制作された時期を示すもの。
例えば、室町時代後期の1570年(元亀元年)の紀年銘(きねんめい)が入った筋兜(すじかぶと)の鉢(はち)を利用して、江戸時代後期の1800年(寛政12年)に1領(りょう)の当世具足(とうせいぐそく)を仕立てても、その具足が完成したのは1800年であって1570年ではありませんから、紀年銘だけにとらわれず甲冑全体の様式や意匠に注目して鑑定する必要があります。
上記の作者銘や紀年銘に比べて数は少ないですが、所有者名を記した所持銘(しょじめい)や、注文者の名を刻んだ注文銘(ちゅうもんめい)などもあります。
日本の甲冑は、金属、皮革、漆、繊維など多くの素材から構成されますが、最初に銘を入れ始めたのは、鉄を鍛え加工する鍛冶(かじ)分野の職人と考えられます。
しかし、刀剣の銘が平安時代後期に一般化したのに比べ、甲冑に銘らしきものが確認されるのはずっとあとの鎌倉時代後期から南北朝時代のころ。それも最初は「一」、「大」、「上」などの1文字が、ごくまれに兜鉢(かぶとばち)の裏にあるという程度で、職人が個人として名を刻んだとは考えにくく、あるいは職人の集団を示す記号か、制作の手順を表した印とも推測されます。
甲冑の制作は多分野の工芸にまたがりますが、平安時代から室町時代後期までのいわゆる中世の甲冑師についての資料はほとんどなく、仕事や生活の詳しい状況は現在も不明。
室町時代後期になるころに、人名らしき銘が兜鉢に入ります。当時、銘を入れた甲冑師の流派でよく知られるのは、大和国(現在の奈良県)の奈良で活動した春田派。
厳島神社(現在の広島県廿日市市)が所蔵する「藍韋肩赤威鎧」(あいがわかたあかおどしよろい、重要文化財)の兜(かぶと)の鉢裏(はちうら)には「和州南都住春太光信作」(わしゅうなんとじゅうはるたみつのぶさく)と銘が入ります。他には「春田光定作」(はるたみつさださく)という銘が裏に刻まれた阿古陀形筋兜(あこだなりすじかぶと)が多く残っています。
16世紀以降には、上野国(現在の群馬県)で作られた小星兜(こほしかぶと)の銘のように、職人の居住地と制作年月日を詳しく記した物も登場。これらは甲冑の鑑定の基準となるだけでなく、歴史資料としての価値も認められています。
兜でなく胴(どう)に刻まれた銘では、天正年間(1573~1592年)に陸奥国会津(現在の福島県会津地方)で活動した雪下派(ゆきのしたは)の鍛冶職人が、分厚い鉄胴の雪下胴(ゆきのしだどう)の裏に作者名と年月日、神号(しんごう)を切ったことが知られます。
江戸時代には、以下に述べる切銘(きりめい)や朱銘(しゅめい)など、甲冑に様々な方法で銘が入れられ、その内容も作者名から由緒来歴を記したものなど多様化しました。
刀剣と同様、甲冑師が地鉄に氏名や年月日を鏨(たがね)で刻み込む切銘は、甲冑の銘でも特に一般的な手法。甲冑の中では鉄製部品、特に兜鉢の裏に入れられることが最も多いです。鍛冶出身の明珍派(みょうちんは)が江戸時代に拡大したことの影響と言えるでしょう。
ただし、兜鉢裏の銘は浮張(うけばり)によって多くは隠れてしまいます。一部の浮張は銘が見えるように最初から穴を開けた仕様もありますが、兜鉢裏の全面を覆うことが普通です。
この場合、文化財保護の観点からは適切とは言えませんが、兜鉢の外観の形状や意匠から作者の流派を推定して、銘が切られている可能性が高い場所の見当を付け、浮張の端を破いたり剥がしたりして銘の有無を直接確かめることがよく行われてきました。
切銘は、他に面頬(めんぽお/めんぼお)の顎下にも見られ、また胴の脇や引合せ部、籠手(こて)、臑当(すねあて)に刻まれた例もあります。珍しい物では、銘が切られた鉄小札(てつこざね)も確認されています。
作者名や年月日だけでなく、神仏の加護を願い、神号や経文(きょうもん)を入れることも行われました。例えば、「武田信玄」が1569年(永禄12年)に後北条氏を攻めた際に戦勝を祈り奉納したと伝わる六十二間筋兜の鉢(重要美術品・神奈川県指定有形文化財・神奈川県寒川町の寒川神社[さむかわじんじゃ]蔵)の裏には、作者名の「房宗」(ふさむね)と「天文六年丁酉三月吉日」の年月日に加え、「天照皇太神宮」、「八幡大菩薩」、「春日大明神」の3つの神号と「般若心経」(はんにゃしんぎょう)全文が刻まれ、武田信玄の信仰心を垣間見ることもできます。
他に、福井県福井市の藤島神社が所蔵する伝「新田義貞」(にったよしさだ)所用の「鉄製銀象眼冑」(てつせいぎんぞうがんかぶと:重要文化財)の鉢表には、経文や三十番神(さんじゅうばんしん:日替わりで国を守ると信じられた30柱の神々)の名が彫られ、これは装飾もかねた意匠になります。
朱銘は、作者の氏名や年月日などを朱漆で書き入れるもの。鉄地の上に直接書かれることもあれば、切銘を入れにくい練革(ねりかわ)や漆塗の上にも行われます。兜鉢の裏の他には、錣(しころ)などの札板や胴の裏、木製鎧櫃の裏に記された例も見られます。
朱銘を用いた甲冑師は岩井派に多く、これは鍛冶系の明珍派と異なり、岩井派が甲冑の縅(おどし)や組立てを主に担っていたことによると考えられます。
作者自身による記入以外に、あとから鑑定の結果や伝来、由緒などの情報を鑑定者や所有者が書き込んだ朱銘も存在します。
防府天満宮(ほうふてんまんぐう:現在の山口県防府市)が所蔵する「浅黄糸威褄取大鎧」(あさぎいとおどしつまどりおおよろい:重要文化財)の櫃(ひつ)の蓋裏に書かれた朱銘は、周防・長門両国(現在の山口県)と豊前国(現在の福岡県)の守護大名であった「大内盛見」(おおうちもりあきら)が、室町幕府の足利将軍家から贈られたその大鎧(おおよろい)を、神事祭礼の装束として1429年(正長2年)1月26日に防府天満宮へ奉納したという内容。
この鎧櫃の朱銘が残っていることで、浅黄糸威褄取大鎧は室町時代中期(15世紀)の甲冑の基準となる他、当時の室町幕府と大内氏の関係や大内氏の領地支配を示す貴重な資料として活用することができるのです。
切銘と朱銘の他には墨書による銘もあります。墨書銘は、小具足の家地(いえじ)といった布部分や木製鎧櫃の裏など、墨がのりやすい場所にみられ、所有者名や伝来を、寺社への奉納品の場合は奉納した人物の名やその理由、年月日をしたためることがあります。
さらに、数は多くありませんが金泥(きんでい:金粉をにかわで溶いた顔料)の銘も存在。「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)の重臣「梅津憲忠」(うめづのりただ)が所用した仏胴(ほとけどう)具足(秋田市立佐竹史料館 所蔵:秋田県秋田市)の各部品には、本甲冑が大坂冬の陣で使用され、胴の脇腹にある傷はそのときの戦闘で付いたという金泥の説明文があり、これは孫の「梅津忠宴」(うめづただよし)が書き込んだ物です。
鍋島報效会徴古館(佐賀県佐賀市)が所有する「青漆塗萌黄糸威二枚胴具足」(せいしつぬりもえぎいとおどしにまいどうぐそく:佐賀県指定重要文化財)の胴裏には、佐賀藩初代藩主の「鍋島勝茂」(なべしまかつしげ)の十一男である「神代直長」(くましろなおなが)による、父の鍋島勝茂が島原の乱でこの具足を着用したことを述べた漢文「鎧記」が金泥で格調高く記されます。使用者の子や孫が銘として残したこれらの情報が、甲冑の変化を研究する上で有用なのは言うまでもありません。
なお、直接記入する銘とは異なりますが、甲冑師が修理した甲冑に、その旨を紙面に記して裏に仕込んだり貼り付けたりすることもときに行われました。これらも甲冑が様々な人の手を経て伝え守られてきたことを示す重要な情報です。