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軍師と聞いて最初に思い浮かべる人物とは、例えば戦場の本陣で大将の近くに控え、刻々と変わる戦況を分析して最適な戦略・戦術を大将に授け、最終的に勝利に導く人、というイメージではないでしょうか。こういう役割を担う人を「軍監」(ぐんかん)、あるいは「軍者」(ぐんじゃ)と言い、戦国時代の初期には軍の大将がこの役を担っていました。しかし「山本勘助」(やまもとかんすけ)が甲斐(かい:現在の山梨県)武田氏に仕えてから、大将に代わって軍監を行う専任担当が生まれたと言われます。これが戦国時代における軍師の誕生でした。そんな軍師の具体的な仕事と、軍師に必要な要素についてお話しします。

軍師の仕事

軍師の一番の仕事とは、戦場で大将に対して作戦を授けることだと思われがちです。しかし、実は戦いが始まる前から様々な仕事を担っていました。

事前工作

軍師にとって「戦いに勝つ」こと以上に大切なのは、「戦わずして勝つ」こと。実際に戦闘を行えば敵味方共に大きなダメージを受けますし、もちろん死の危険もあります。そのため、戦わなくても勝てる方法を探るか、もし戦火を交えるとしても、よりたやすく勝てる状況を作りだすことが軍師に求められました。

最も手っ取り早い手段は、敵方の有力な武将を裏切らせ、味方に付けてしまうこと。そのために有力な敵将にこっそりと接触して味方側に引きずり込み、またあるときは城を囲んで食糧の補給路を断ち、敵兵の士気を失わせるなど、ありとあらゆる事前工作を行いました。その意味で軍師は外交官でもあったのです。

黒田官兵衛

黒田官兵衛

しかし当時、裏切りは日常茶飯事。外交官としての交渉力に加えて、相手の言葉が本当かどうかを見極める力も必要であり、これはかなり難しい仕事でした。

こうした事前工作を得意としたのが「真田幸隆」(さなだゆきたか)、「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ:「竹中重治」[たけなかしげはる]のこと)、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ:「黒田如水」[くろだじょすい]とも)などの軍師でした。

兵站

戦を行うには、兵士を効率よく移動させると同時に、武器や食糧、兵馬などを確実に動かす手段を確保しなくてはなりません。いわゆる兵站(へいたん)を担ったのも軍師でした。

加持祈祷・占卜

山本勘助

山本勘助

また軍師の重要な仕事に、加持祈祷(かじきとう)と占卜(せんぼく)があります。加持祈祷とは、手に印契(いんげい:指で様々な形をつくること)を結び、真言(しんごん:秘密の呪文)を唱えて仏の加護を求め、勝利祈願を行う密教儀式。

占卜とは様々な方法で神意を問い、物事の成否や吉兆を占うこと。戦国武将に限らず、日本人は古代から何か行動を起こす前に神仏の力を借りることが多く、戦の前の加持祈祷・占卜は、軍師の仕事でした。同様に、天気を神仏に尋ねるしかなかった当時は、軍師にとって天気予報も重要な任務だったのです。

城作り

軍師の重要な仕事に城作りがあります。城と言っても、立派な天守閣と城下町が作られるようになったのは「安土城」(現在の滋賀県近江八幡市)以降。それ以前の城は、山や川などの地形を利用して周囲に曲輪(くるわ:土や石などで築いた囲い)をめぐらせた砦(とりで)のような構造でした。

この城を築くとき、曲輪をどのようにめぐらせば敵に攻撃されにくく、自軍が攻撃しやすいか、また水・食糧の確保やいざというときの抜け道などを考え、軍師は最適な設計を行ったのです。前述の山本勘助や、「藤堂高虎」(とうどうたかとら)は城作りの名人として知られます。

軍師に必要なもの

次に、戦国時代の軍師に求められるのはどんな要素だったのかをご紹介しましょう。

武勇

戦国時代は文字どおり戦乱の世であり、基本的には「武」の要素が不可欠でした。武とは鉄砲などの操作技術はもとより、戦場における勇猛さ、部隊を率いる統率力、戦況を分析する判断力など、戦いに必要なすべての能力をさします。

信頼関係

もうひとつ戦国時代を通して必要なのが、主君からの絶対的な信頼です。裏切りや下剋上が珍しくない時代に、戦国大名に最も近い場所にいる軍師は、大名側から見れば「裏切られたら最も怖い存在」であったことは容易に想像ができます。それゆえに名軍師の多くは、長い時間をかけて主君から揺るぎない信頼を得てきました。

そして信頼を勝ち取るプロセスのなかで、「片倉小十郎」(かたくらこじゅうろう)は病気で失明し飛び出してしまった主君の眼球を抉るために短刀を突き立て、また「立花道雪」(たちばなどうせつ)は死を覚悟して主君に意見するなど、様々なドラマがあります。

兵士の管理能力

戦国時代の前半は、武勇と信頼関係さえあれば軍師は軍団を掌握し、他国との戦いに勝てました。しかし「織田信長」が登場して周辺国を制圧し、織田家が巨大化するにつれ、軍師は多くの兵士を動かすことになります。こうして自身の勇猛さと主君との信頼関係だけで良かった時代は終わり、軍師に兵士の管理能力が求められるようになったのです。

石田三成」は、「豊臣秀吉」の下で、文官(ぶんかん:軍事以外の実務を行う行政官)として出世した豊臣家の家臣です。その石田三成が、優れた管理能力を持っていた「島左近」(しまさこん)を採用するために自身の年俸の半分をさしだしたのには、そういう背景がありました。

領地の管理能力

戦国武将が新しい領地を手に入れると、軍師のなかにはその経営を任される者も。戦争で城や領地を手に入れた場合、領内や城の周辺は戦闘によって荒れ果てています。しかし今後、新しく入ってきた武将がその領地のトップとなって領民から年貢を徴収するわけですから、まず領民との融和を図ると同時に、地域の人々の暮らしを豊かにすることも考えなくてはなりません。

それは、城を攻めるのとはまったく異なる仕事であり、まったく異なる発想が必要でした。「斎藤利三」(さいとうとしみつ)や「直江兼続」(なおえかねつぐ)などは、新しい領地の運営を任され、大きな成果を上げています。

新しい政治機構の構築

さらに時代が進んで「徳川家康」が天下を取ったあとは、武力ではなく、末永く続く政治のしくみを構築できる力が必要になりました。徳川家康と共に戦場をかけめぐり、晩年は江戸幕府の成立に尽くした「本多正信」(ほんだまさのぶ)などがその典型と言えます。

バラエティ豊かな戦国軍師

戦国を駆け抜けた軍師達

軍師は戦略を考える以外にも、様々な業務を担当すること、また求められる要素も、時代によって変わることを紹介してきました。ひとことで軍師と言っても、その生きざまは実にバラエティに富んでいます。

真田幸村

真田幸村

例えば現代の私達にも通じる多くの名言を残した「朝倉宗滴」(あさくらそうてき)や、キリスト教に帰依して最後はフィリピンのマニラでも活躍した「内藤如安」(ないとうじょあん)、一度は滅亡した主家の再興のために命を懸けた「山中鹿助」(やまなかしかのすけ)、兄弟が別の主君に仕えて戦場で戦った「真田幸村」(さなだゆきむら:「真田信繁」[さなだのぶしげ]のこと)など。

しかしひとつだけ共通しているのは、全員が真剣に主君を支え、明日の命も分からない戦国時代を駆け抜けたということでした。

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名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
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島左近(嶋左近)

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戦国随一の知恵者として知られる「島左近/嶋左近」(しまさこん)の生誕年には諸説あり、1540年(天文9年)、もしくは1543年(天文12年)生まれと伝えられています。島左近は、大和国(現在の奈良県)の「筒井順慶」(つついじゅんけい)に仕えたのちに主君を何度も変え、破格の待遇で「石田三成」(いしだみつなり)に、家臣として迎えられたのです。歴史で「たら・れば」を言っても意味はないかもしれませんが、もし島左近の仕官した大将が、曲がったことが嫌いで一本気な石田三成でなければ、日本の歴史は大きく変わっていたのではないでしょうか。そんな風に想像を掻き立ててくれる名軍師・島左近の生涯をご説明すると共に、その子孫達についてもご紹介します。

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朝倉宗滴

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山本勘助

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「山本勘助」(やまもとかんすけ)は、「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん:16世紀後半に作られた、武田氏の戦略・戦術を記録した書)に登場する軍師です。ところが他の史料にその名が登場しないため、長い間実在が疑問視され、「幻の軍師」と呼ばれてきました。しかし1969年(昭和44年)、釧路の市河氏という方が、先祖から伝わる古文書の中に山本勘助(記載は[山本管助])の名が記された書状(市河家文書)を発見。調査したところ本物であることが確認され、山本勘助が実在の人物であったことが判明したのです。近年、多くの歴史学者の研究によって少しずつ山本勘助の生き様が見えてきましたが、今もなお詳細は謎のまま。ここでは甲陽軍鑑の記載をもとに、山本勘助の活躍をご紹介します。

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真田幸隆

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「真田幸隆」(さなだゆきたか)は、もともと信濃(しなの:現在の長野県)東部に住んでいた小豪族の一武将です。しかし甲斐(かい:現在の山梨県)の「武田信玄」に仕えてから大出世し、最終的には「武田二十四将」(武田家を代表する名将)に数えられるまでになりました。そんな真田幸隆が最も得意とした戦法は、なんと「謀略」(ぼうりゃく)。謀略とは、平時からあの手この手で敵方に入り込んで様々な工作を行うこと。これによって、いざというときに戦わずして勝つ。これぞ、戦国を生き抜いた真田幸隆流の必勝法でした。

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立花道雪

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「立花道雪」(たちばなどうせつ)は豊後(ぶんご:現在の大分県)生まれ。「大友宗麟」(おおともそうりん:豊後を治めた大名。のちにキリスト教に帰依し、「キリシタン大名」と呼ばれた)に仕えました。戦国の軍師は数多く存在しますが、立花道雪ほど武士として、人間としての正しさを追求した人物はいません。そんな立花道雪の人生には、戦国時代の人物らしからぬ様々なエピソードがあります。

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斎藤利三

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鍋島直茂

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「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)は1538年(天文7年)、肥前国(現在の佐賀県、及び長崎県)生まれ。「龍造寺家/竜造寺家」の軍師として9歳年上の義兄、「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)に仕えました。「動」の大将・龍造寺隆信と「静」の軍師・鍋島直茂のコンビは九州北部を舞台に暴れまくり、龍造寺家は、1580年代に最盛期を迎えます。しかし、豊臣秀吉が九州を支配したとき、龍造寺隆信の子がいるにもかかわらず肥前国の支配を命じられたのは、軍師の鍋島直茂でした。これはもちろん、鍋島直茂の裏切りではありません。それではなぜ、そんな逆転現象が起こったのか、鍋島直茂の生涯を辿りながら解説します。

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本多正信

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一般的に「軍師」とは、合戦において「どのように敵を攻撃すれば、戦いが自軍に有利かを考え、大将に進言する人」というイメージを持つ人が多いのではないでしょうか。しかし実際には、合戦以外で力を発揮する軍師もたくさんいました。その代表格が、「徳川家」の軍師として名高い「本多正信」(ほんだまさのぶ)です。徳川家が天下を統一する道のりの中、武力ではなく高い政治力で敵方の武将や朝廷と交渉。NHK大河ドラマ「真田丸」(さなだまる)では、役者の「近藤正臣」(こんどうまさおみ)さんが飄々とした演技で、武人ではない雰囲気を上手く表現していました。真田丸でも描かれたように徳川家の重臣であった本多正信が、江戸幕府の基礎を内側からどのように固めたのか、その人生を振り返りながらご説明します。

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竹中半兵衛

竹中半兵衛
戦国きっての名軍師「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)は、美濃国(現在の岐阜県南部)の出身。身体が弱く、きゃしゃな風体は「女性のよう」と形容されたほどの美男子でした。しかし恐ろしいほどの知恵者で、若くして「斎藤龍興」(さいとうたつおき:斎藤道三[さいとうどうさん]の孫)に仕えた頃には「織田信長」(おだのぶなが)軍を撃退したという話が残っています。その後は「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉[とよとみひでよし])にスカウトされ、軍師として日本中を駆け巡ります。同じ秀吉軍の軍師であった「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)とともに「両兵衛」と並び称されました。

竹中半兵衛

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