「山本勘助」(やまもとかんすけ)は、「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん:16世紀後半に作られた、武田氏の戦略・戦術を記録した書)に登場する軍師です。ところが他の史料にその名が登場しないため、長い間実在が疑問視され、「幻の軍師」と呼ばれてきました。しかし1969年(昭和44年)、釧路の市河氏という方が、先祖から伝わる古文書の中に山本勘助(記載は[山本管助])の名が記された書状(市河家文書)を発見。調査したところ本物であることが確認され、山本勘助が実在の人物であったことが判明したのです。近年、多くの歴史学者の研究によって少しずつ山本勘助の生き様が見えてきましたが、今もなお詳細は謎のまま。ここでは甲陽軍鑑の記載をもとに、山本勘助の活躍をご紹介します。
武田家のなかで、山本勘助は「城取り」(しろどり:築城術)と「縄張り」(なわばり:設計)、「陣取り」(じんどり:戦場での布陣)を担当。甲陽軍鑑には「海津城」(かいづじょう:長野県長野市。のちの松代城:まつしろじょう)、「小諸城」(こもろじょう:長野県小諸市)、「高遠城」(長野県伊那市)、「松本城」(長野県松本市)を築城したと書かれています。しかしすべて後世に大幅に改築されており、また当時の図面も残っていないため、残念ながら山本勘助の縄張りを見ることはできません。
甲陽軍鑑には、他にも山本勘助が「日取り」(ひどり:月の満ち欠けや星の運行によって物事の吉凶を占うこと)も得意としたと書かれています。当時は神仏の加護に頼ることは重要な戦術のひとつでした。山本勘助が軍師として幅広く活躍していたことがうかがえます。
山本勘助は1546年(天文15年)の「碓氷峠の戦い」(うすいとうげのたたかい:群馬県安中市)や、1548年(天文17年)の「上田原の戦い」(うえだはらのたたかい:長野県上田市)など、多くの戦いに参加して戦功を挙げています。
1550年(天文19年)の「戸石城」(といしじょう:長野県上田市。[村上義清:むらかみよしきよ]の城)攻めでは、武田軍は有力武将を次々と失い、武田信玄も命を落としかけます。これが武田信玄最大の敗北、「戸石崩れ」(といしくずれ)です。
このとき、武田信玄の近くで仕えていた山本勘助は、「私に50騎の兵をお預けいただければ、この戦いに勝ってみせましょう」と宣言。兵と共に敵陣に乗り込み「日取りでは武田軍の勝ちでござるぞ!」と大声で村上軍を挑発しました。
村上軍が追いかけると、態勢を立て直した武田本隊が村上軍を返り討ちにします。山本勘助の作戦が成功したことと、大声の鼓舞によって武田軍の士気は大いに高まりました。こうして敵はじりじりと後退し、武田信玄は一命を取り留めます。
村上義清が越後(えちご:現在の新潟県)の「上杉謙信」を頼ったことで、武田信玄と上杉謙信の直接対決が始まります。舞台は川中島(かわなかじま:長野県長野市川中島一帯)。この戦いは1553~1564年(天文22~永禄7年)の11年間に5回行われましたが、なかでも最も激戦だったのが4回目、1561年(永禄4年)の「第4次川中島の戦い」です。
このとき、上杉謙信は海津城を攻め落とすため、城の西にある小高い妻女山(さいじょさん)に布陣しました。山本勘助は「明朝、我が軍20,000のうち12,000で妻女山を攻め、山を下りた上杉軍を残りの兵と共にはさみうちにする」という作戦を進言。
これは、キツツキが木をつついて虫が出てきたところを食べるという話に基づいて「キツツキ戦法」と呼ばれますが、甲陽軍鑑にその名はありません。川中島の激戦が語り継がれるなかで、その名が自然に発生したものと思われます。
武田軍は作戦に従って二手に分かれて移動を開始。それを妻女山から見ていた上杉謙信は、武田信玄の魂胆に気付きました。そこで自分達は前夜のうちに山を下り、武田軍より先に切り込むことにしたのです。
上杉軍は深夜、物音ひとつたてずに山を下りて武田軍に接近。翌朝、日が昇ると同時に、13,000の上杉軍と12,000の武田軍は全軍入り乱れての大混戦となります。
このとき白頭巾の騎馬武者が武田本陣に突進し、馬上から3尺の刀を振るって武田信玄に切り付けました。武田信玄は軍扇(ぐんせん:武将が戦場で指揮に用いた扇)で応戦し、腕に2ヵ所の傷を負ったものの無事。実は、この白頭巾の武将こそが上杉謙信でした。講談で語られる、「川中島の戦い」のハイライトシーンです。
そのあと、上杉謙信も無傷で武田軍のなかを突っ切って脱出しています。結局、この日は双方に大量の死傷者を出したものの決着は付きませんでした。