「真田幸隆」(さなだゆきたか)は、もともと信濃(しなの:現在の長野県)東部に住んでいた小豪族の一武将です。しかし甲斐(かい:現在の山梨県)の「武田信玄」に仕えてから大出世し、最終的には「武田二十四将」(武田家を代表する名将)に数えられるまでになりました。そんな真田幸隆が最も得意とした戦法は、なんと「謀略」(ぼうりゃく)。謀略とは、平時からあの手この手で敵方に入り込んで様々な工作を行うこと。これによって、いざというときに戦わずして勝つ。これぞ、戦国を生き抜いた真田幸隆流の必勝法でした。
1549年(天文18年)に転機が訪れます。真田幸隆は、当時、武田家に敵対していた「村上義清」(むらかみよしきよ:北信濃を治めていた武将)の家臣であった「望月三郎」(もちづきさぶろう)にこっそりと近づき、武田軍に引き入れることに成功。これに味をしめた真田幸隆は、少しずつ謀略でのし上がっていきます。
1550年(天文19年)、武田信玄は村上義清の拠点のひとつ、「戸石城」(といしじょう:長野県上田市)攻めを行いました。この作戦の指揮を任されたのが真田幸隆です。信頼されていたと言うよりも、たまたま、真田幸隆の居城「松尾城」(まつおじょう:長野県飯田市)が戸石城に近かったというだけの理由でした。
そのおかげで武田信玄は命からがら逃げ延びました。この敗戦を、武田信玄の「戸石崩れ」(といしくずれ)と言います。
これで、武田家における真田幸隆の評価は、だだ下がり。しかし逆に考えたら、彼がすぐに撤退を提言しなければ、武田信玄は殺されていました。つまり、これは真田幸隆の情報網の正確さと、判断力の正しさを物語っていたのです。
この失敗がよほど悔しかったのでしょう。翌1551年(天文20年)、真田幸隆は武田軍の力を借りず、手持ちの軍勢だけで戸石城をあっさりと攻め落としています。実はこれ、時間をかけて準備してきた内部工作がようやく実ったということ。このお手柄によって、真田幸隆はようやく武田軍で一目置かれる武将になりました。
岩櫃城はこれまでのどの城よりも攻略が難しいと判断した真田幸隆は、斎藤氏との和睦を提案します。しかし、もちろんこれは謀略。和睦により戦いが収まると、今度は斎藤憲広の一族や家臣に取り入って、彼らを真田方のスパイにしてしまいます。そしてある夜、スパイが城の内側から火を放ち、同時に一斉に攻撃を仕掛け、あっさりと岩櫃城攻略に成功。以降、岩櫃城は真田家の重要拠点となりました。
NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニングで、天守を戴く山城の映像を記憶している人も多いと思いますが、これが岩櫃城です。ちなみに、実際の岩櫃城の山頂に天守はありませんでした。
しかし岩櫃から北にわずか数キロの「嵩山城」(たけやまじょう:群馬県中之条町)では、斎藤憲広の子「城虎丸」(じょうこまる)が虎視眈々と反撃のチャンスを狙っていました。1564年(永禄7年)、上杉謙信は城虎丸を救うために嵩山城に援軍を送り込みます。
真田軍と上杉軍は嵩山城の西、美野原(みのはら)で対峙し、一触即発の状態に。ところがこのとき、上杉方の大将に「武田信玄が率いた大軍団が近くまで来ている」という知らせが入り、上杉軍は慌てて嵩山城に入って籠城(ろうじょう:城にたてこもって防御する戦法)に持ち込みます。実はこの情報も真っ赤な嘘。真田幸隆も武田信玄に援軍を依頼したものの、この段階では武田信玄本人どころか、援軍すらはるか彼方。もちろんデマの犯人は真田幸隆でした。
ここで一気に攻め込まないのが策士・真田幸隆の真骨頂。籠城されると攻略に時間がかかると判断した真田幸隆は、あっさりと撤兵します。武田信玄から早く攻撃しろとプレッシャーがかかっても動きません。
翌1565年(永禄8年)、城虎丸の兄、「斎藤憲宗」(さいとうのりむね)が弟の応援のために越後から兵を率いて嵩山城に駆け付けると、ようやく真田幸隆はアクションを開始。嵩山城に使いを送り、「斎藤兄弟が岩櫃に戻れるよう、私から信玄公にお願いする」と言って兄弟に接近しました。もちろんこれも嘘。こうして斎藤家に入り込んだ真田幸隆は、斎藤兄弟が頼りにしてきた重臣を口説いて真田方に寝返らせてしまいます。
この仕打ちにブチ切れた兄弟は、一気に城から攻め出てきます。ここぞとばかりに真田軍が一斉攻撃をしかけ、嵩山城にいた一族郎党を女・子供にいたるまでひとり残らず殺してしまいました。これは、籠城が長引くことを嫌った真田幸隆が、兄弟を城からおびき出し、タイミングを見て一族もろとも殺してしまう作戦。なんともひどい作戦ですが、これが戦国時代の戦い方です。
そのあとも真田幸隆は謀略で武田軍の勝利に貢献します。1567年(永禄10年)、真田幸隆は上杉謙信の領地である「白井城」(しらいじょう:群馬県渋川市)を攻撃しました。このときは、城に続く道路を整備する黒鍬隊(くろくわたい)という専任隊を先に派遣。
そして完成した道を通って真田の大軍が敵地に押し寄せ、一帯の集落を焼き払って白井城を攻め落としたのです。こうした仕打ちにより、真田幸隆は武田家の「鬼弾正」(おにだんじょう)と恐れられました。