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真田幸隆
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真田幸隆 真田幸隆
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「真田幸隆」(さなだゆきたか)は、もともと信濃(しなの:現在の長野県)東部に住んでいた小豪族の一武将です。しかし甲斐(かい:現在の山梨県)の「武田信玄」に仕えてから大出世し、最終的には「武田二十四将」(武田家を代表する名将)に数えられるまでになりました。そんな真田幸隆が最も得意とした戦法は、なんと「謀略」(ぼうりゃく)。謀略とは、平時からあの手この手で敵方に入り込んで様々な工作を行うこと。これによって、いざというときに戦わずして勝つ。これぞ、戦国を生き抜いた真田幸隆流の必勝法でした。

知将・真田幸隆が誕生するまで

普通の武将だった若き日

真田幸隆

真田幸隆

小豪族の真田幸隆が、いつ、どんな経緯で武田信玄に仕えることになったのかは分かっていません。

1547年(天文16年)の「小田井原の合戦」(おたいはらのかっせん:現在の長野県佐久郡。武田信玄と上杉憲政[うえすぎのりまさ]が戦った)の記録に真田幸隆の名が初登場しているため、これ以前に武田軍に加わったものと思われます。

しかしこの頃、武田軍は上杉軍に連戦連敗中。真田幸隆は30歳代半ばでしたが、目立った活躍は残していません。つまり、真田幸隆はどこにでもいる普通の武将に過ぎなかったのです。

謀略に目覚める

1549年(天文18年)に転機が訪れます。真田幸隆は、当時、武田家に敵対していた「村上義清」(むらかみよしきよ:北信濃を治めていた武将)の家臣であった「望月三郎」(もちづきさぶろう)にこっそりと近づき、武田軍に引き入れることに成功。これに味をしめた真田幸隆は、少しずつ謀略でのし上がっていきます。

武田信玄を死なせそうになる

1550年(天文19年)、武田信玄は村上義清の拠点のひとつ、「戸石城」(といしじょう:長野県上田市)攻めを行いました。この作戦の指揮を任されたのが真田幸隆です。信頼されていたと言うよりも、たまたま、真田幸隆の居城「松尾城」(まつおじょう:長野県飯田市)が戸石城に近かったというだけの理由でした。

武田信玄

武田信玄

当時、難攻不落と言われた戸石城ですから、正面からの攻略は不可能。そこで真田幸隆は得意の内部工作を着々と進めました。ところが武田軍の武将のひとりが村上方と通じていたことが発覚。それを知った真田幸隆は、すぐ武田信玄に撤退するよう提言します。

そのおかげで武田信玄は命からがら逃げ延びました。この敗戦を、武田信玄の「戸石崩れ」(といしくずれ)と言います。

これで、武田家における真田幸隆の評価は、だだ下がり。しかし逆に考えたら、彼がすぐに撤退を提言しなければ、武田信玄は殺されていました。つまり、これは真田幸隆の情報網の正確さと、判断力の正しさを物語っていたのです。

真田幸隆、ついに覚醒

この失敗がよほど悔しかったのでしょう。翌1551年(天文20年)、真田幸隆は武田軍の力を借りず、手持ちの軍勢だけで戸石城をあっさりと攻め落としています。実はこれ、時間をかけて準備してきた内部工作がようやく実ったということ。このお手柄によって、真田幸隆はようやく武田軍で一目置かれる武将になりました。

真田幸隆の謀略の日々

川中島の場外乱闘

1553年(天文22年)、村上義清は信濃を追われ、越後(えちご:現在の新潟県)の「上杉謙信」に助けを求めます。このとき、11年間に5回の戦闘が行われた「川中島の合戦」(現在の長野県長野市)の火ぶたが切られました。

同じ頃、西の上野(こうずけ:現在の群馬県)では、上杉氏に近い「斎藤憲広」(さいとうのりひろ)と、真田家に近い「鎌原幸重」(かまはらゆきしげ)が対立中。真田幸隆は鎌原軍の応援のため、難攻不落と言われた「岩櫃城」(いわびつじょう:群馬県東吾妻町)に攻撃を開始。こうして、真田軍(武田軍)と斎藤軍(上杉軍)の戦い、いわば川中島の場外乱闘がスタートしました。

スパイを使って城を落とす

岩櫃城本丸跡

岩櫃城本丸跡

岩櫃城はこれまでのどの城よりも攻略が難しいと判断した真田幸隆は、斎藤氏との和睦を提案します。しかし、もちろんこれは謀略。和睦により戦いが収まると、今度は斎藤憲広の一族や家臣に取り入って、彼らを真田方のスパイにしてしまいます。そしてある夜、スパイが城の内側から火を放ち、同時に一斉に攻撃を仕掛け、あっさりと岩櫃城攻略に成功。以降、岩櫃城は真田家の重要拠点となりました。

NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニングで、天守を戴く山城の映像を記憶している人も多いと思いますが、これが岩櫃城です。ちなみに、実際の岩櫃城の山頂に天守はありませんでした。

「信玄公が来るぞ!」という嘘

しかし岩櫃から北にわずか数キロの「嵩山城」(たけやまじょう:群馬県中之条町)では、斎藤憲広の子「城虎丸」(じょうこまる)が虎視眈々と反撃のチャンスを狙っていました。1564年(永禄7年)、上杉謙信は城虎丸を救うために嵩山城に援軍を送り込みます。

真田軍と上杉軍は嵩山城の西、美野原(みのはら)で対峙し、一触即発の状態に。ところがこのとき、上杉方の大将に「武田信玄が率いた大軍団が近くまで来ている」という知らせが入り、上杉軍は慌てて嵩山城に入って籠城(ろうじょう:城にたてこもって防御する戦法)に持ち込みます。実はこの情報も真っ赤な嘘。真田幸隆も武田信玄に援軍を依頼したものの、この段階では武田信玄本人どころか、援軍すらはるか彼方。もちろんデマの犯人は真田幸隆でした。

敵を城からおびき出す大作戦

ここで一気に攻め込まないのが策士・真田幸隆の真骨頂。籠城されると攻略に時間がかかると判断した真田幸隆は、あっさりと撤兵します。武田信玄から早く攻撃しろとプレッシャーがかかっても動きません。

翌1565年(永禄8年)、城虎丸の兄、「斎藤憲宗」(さいとうのりむね)が弟の応援のために越後から兵を率いて嵩山城に駆け付けると、ようやく真田幸隆はアクションを開始。嵩山城に使いを送り、「斎藤兄弟が岩櫃に戻れるよう、私から信玄公にお願いする」と言って兄弟に接近しました。もちろんこれも嘘。こうして斎藤家に入り込んだ真田幸隆は、斎藤兄弟が頼りにしてきた重臣を口説いて真田方に寝返らせてしまいます。

この仕打ちにブチ切れた兄弟は、一気に城から攻め出てきます。ここぞとばかりに真田軍が一斉攻撃をしかけ、嵩山城にいた一族郎党を女・子供にいたるまでひとり残らず殺してしまいました。これは、籠城が長引くことを嫌った真田幸隆が、兄弟を城からおびき出し、タイミングを見て一族もろとも殺してしまう作戦。なんともひどい作戦ですが、これが戦国時代の戦い方です。

真田家に受け継がれた才能

鬼弾正と呼ばれた男

そのあとも真田幸隆は謀略で武田軍の勝利に貢献します。1567年(永禄10年)、真田幸隆は上杉謙信の領地である「白井城」(しらいじょう:群馬県渋川市)を攻撃しました。このときは、城に続く道路を整備する黒鍬隊(くろくわたい)という専任隊を先に派遣。

そして完成した道を通って真田の大軍が敵地に押し寄せ、一帯の集落を焼き払って白井城を攻め落としたのです。こうした仕打ちにより、真田幸隆は武田家の「鬼弾正」(おにだんじょう)と恐れられました。

本当は好い人だった?

しかし実際のところ、真田幸隆は決して鬼のような人物ではなかったと考えられています。なぜなら、命をやり取りする敵さえも仲間に引き入れるには、緻密な計算と天才的な話術に加えて、持って生まれた人間的な魅力が不可欠だからです。

その才能と人間味は、子の「真田昌幸」(さなだまさゆき:「徳川家康」と「徳川秀忠」を撃退した知将)、孫の「真田幸村」(さなだゆきむら:豊臣家を最後まで支えた日本一の名将。[真田信繁]さなだのぶしげとも)らに受け継がれ、真田家が戦国時代をたくましく生きるパワーとなったのです。

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