「立花道雪」(たちばなどうせつ)は豊後(ぶんご:現在の大分県)生まれ。「大友宗麟」(おおともそうりん:豊後を治めた大名。のちにキリスト教に帰依し、「キリシタン大名」と呼ばれた)に仕えました。戦国の軍師は数多く存在しますが、立花道雪ほど武士として、人間としての正しさを追求した人物はいません。そんな立花道雪の人生には、戦国時代の人物らしからぬ様々なエピソードがあります。
立花道雪は1513年(永正10年)生まれ。父の「戸次親家」(べっきちかいえ)は、大友家(おおともけ:豊後、豊前・筑後[ぶぜん・ちくご:どちらも現在の福岡県の一部]を治めた戦国大名)に代々仕える家臣です。
当時の大友家は、周防(すおう:現在の山口県東部)の大内家と対立していました。1526年(大永6年)、「大内義隆」(おおうちよしたか)が豊後に侵攻すると戸次親家に出陣命令が出されますが、あいにく病気で起き上がれません。
すると、当時まだ14歳の長男「戸次孫次郎」(べっきまごじろう:のちの立花道雪)が立ちあがり「私が行きます!」と宣言。14歳と言えば、今なら中学2年生です。そんな子供が2,000の騎兵を引き連れて戦場に行くのですから尋常ではありません。
しかも、初陣(ういじん:初めて合戦に参加すること)とは思えないほど堂々と采配を振るい、大内軍をボコボコにして追い払いました。
こうして、「大友家には戸次孫次郎というすごい若武者がいるらしい」という噂が九州中に広まったのです。その直後に父が他界し、戸次孫次郎は戸次家を継いで元服(げんぷく:男子が成人になること)し、「戸次鑑連」(べっきあきつら)と名乗りました。つまり、戸次孫次郎は元服する前に大将として兵を率いて戦に勝っていたということです。只者ではありません。
そんな戸次鑑連は、若いとき災難に見舞われます。江戸時代に書かれた「大友興廃記」(おおともこうはいき)によれば、1548年(天文17年)の夏の日、戸次鑑連が大木の下で昼寝をしていたら、突然の夕立と共に大木に雷が落ちてきました。次の瞬間、戸次鑑連は跳ね起きて、なんと落雷に斬り付けます。
命に別状はありませんでしたが、落雷のせいで戸次鑑連は左足が動かなくなってしまいました。戦国武将にとってこれは致命傷です。ところが戸次鑑連はそのあとも馬に乗って戦場を駆け巡り、敵方の大将を何人も討ち取ったという記録が残っています。
1551年(天文20年)に大内義隆が家臣に討たれ、1555年(弘治元年)には「毛利元就」(もうりもとなり:安芸・備後[あき・びんご:現在の広島県]を治めた戦国武将)が大内家を破って周防を支配。続いて毛利家の家臣、「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)を総大将とする20,000の軍勢が北九州に攻め込み、大友家の「門司城」(もじじょう:現在の福岡県北九州市)を奪い取りました。そのあと大友軍は、戸次鑑連を中心とする20,000の軍勢で反撃します。
このとき、戸次鑑連は矢の名人を800名集め、すべての矢に「参らせ候戸次伯耆守」(あの戸次鑑連が来たぞ)と赤文字で書き、小早川軍に大量に射かけました。その勇名を知っていた小早川軍は焦って総崩れになり、大友家は門司城奪回に成功。つまり「戸次鑑連」という名前を見せただけで勝ってしまったのです。そのあとも門司城をめぐって戸次軍と小早川・毛利軍は激しい戦いを繰り広げます。
戸次鑑連の戦いぶりは、毛利軍の軍記「陰徳太平記」(いんとくたいへいき)に書かれています。「道雪は大友家に肩を比ぶる者なきのみか、隣国にも亦類少き士大将にて、智謀尭捷兼達し、堅を砕き、利を破り、奇正応変に過ちなく」(彼は大友家だけでなく周辺の国にもいない武将。どんな状況でも的確な判断を行い、臨機応変に対処できる男)と絶賛。味方の言葉ならともかく、敵にこれだけほめられたら間違いないのです。
戸次鑑連は勇猛なだけの武将ではありません。当時、大友家の当主は、戸次鑑連より17歳下の「大友義鎮」(おおともよししげ:のちの大友宗麟)。戸次鑑連は、この若き殿に、主君と呼ぶにふさわしい人物になってほしいと願っていました。
あるとき、大友義鎮が飼っていたサルが家来に噛み付きました。逃げる家来を大友義鎮は面白がり、何度も家来にサルをけしかけます。戸次鑑連もサルをけしかけられましたが、戸次鑑連は顔色ひとつ変えず鉄扇(てっせん:骨が鉄でできた扇。護身用の武器としても用いられた)でサルを叩き殺してしまいます。そして一言、「人をもてあそぶと信頼を失います」。大友義鎮は返す言葉がありませんでした。
また大友義鎮は女遊びが大好き。それが度を超えていたため、戸次鑑連が注意しようとしますが、怒られると知っている大友義鎮は会おうとしません。そこで戸次鑑連は京都から自宅に踊り子を招き、昼夜かまわず踊らせて大騒ぎ。
それを見て大友義鎮は思います。「堅物で有名な鑑連が、なぜそんな楽しそうなことを?」。
興味を持った大友義鎮が戸次鑑連の屋敷に行くと、それを待っていた戸次鑑連は、主君に涙ながらに訴えました。
「主君の過ちを正すのが君臣の役目。私は殺されても構いません。しかし主君が世間から悪く言われることが無念でなりません」。さすがにこれは応えました。以降、大友義鎮は女遊びをピタッとやめて国の運営に力を入れるようになりました。
ちなみに、このとき戸次鑑連の屋敷で舞われた踊りは、現在では「鶴崎踊り」(国指定無形民俗文化財)として大分市の夏の夜をにぎわせています。
主君・大友宗麟が出家したのに合わせて、戸次鑑連も髪を剃って麟伯軒道雪(りんぱくけんどうせつ)と号すことになりました。そののち、最大の攻防の舞台となったのが「立花城」(たちばなじょう:現在の福岡県粕屋郡)です。
ここは当時、海上交通の要所であった博多湾を一望できる、戦略的にもきわめて重要な拠点でした。麟伯軒道雪と毛利軍は取ったり取られたりを繰り返します。
1564年(永禄7年)に麟伯軒道雪が立花城を奪取。4年後の1568年(永禄11年)4月には毛利軍が奪回。7月には麟伯軒道雪が奪回。1569年(永禄12年)、本気の毛利元就が62,000の大軍で立花城を奪回。麟伯軒道雪は立花城を包囲すると同時に、大友軍の別動隊が海上から山口と出雲を攻撃したため、背後を突かれた毛利軍は大混乱。
その隙に麟伯軒道雪は立花城を奪回。このとき、城内には毛利方の兵士1,000名がいましたが、麟伯軒道雪の主君・大友宗麟はひとりも殺すことなく、全員を毛利軍の陣まで船で送り届けました。
昔、麟伯軒道雪に怒られていた頃とは人が変わったようなリーダーの成長ぶりです。
これだけ苦労して取り戻した立花城。二度と毛利方に渡さないよう、信頼できる武将を置いておく必要があります。大友宗麟はその大役を麟伯軒道雪に依頼。1571年(元亀2年)、こうして麟伯軒道雪は立花城に入り、大友家の由緒正しい家柄である「立花家」を継いで立花道雪を名乗りました。
そのあとも東の毛利軍、西の龍造寺(りゅうぞうじ)軍、南の島津(しまづ)軍を相手に、立花道雪は戦い続けたのです。晩年、馬にすら乗れなくなった立花道雪は、部下16名がかつぐ神輿(みこし)に乗り、敵陣に突っ込んでいったという嘘のような記録も残っています。最後まで主君のために尽くし、主君のために戦い続けた立花道雪は、こうして伝説になりました。