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斎藤利三
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日本史における最大のミステリーのひとつと言えば、1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」です。「明智光秀」が主君の「織田信長」を討ち、歴史の大きな転換点となりました。明智光秀が謀反を起こした理由については多くの説がありますが、その真相は分かっていません。本当のことを知るのは明智光秀本人だけですが、実はもうひとり、明智光秀が本能寺の変を起こした理由を知っていると推測される人物がいます。それが、明智光秀に軍師として仕えた「斎藤利三」(さいとうとしみつ)です。斎藤利三がどのようにして、本能寺の変にかかわったのかをご紹介します。

誰もが欲しがった戦国のエリート

死後に評価された戦略家

斎藤利三

斎藤利三

斎藤利三が「明智光秀」の軍師であったことは史実として残っていますが、例えば「武田信玄」と「山本勘助」(やまもとかんすけ)、「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの[豊臣秀吉])と「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)のような「大将」と「作戦参謀」という関係ではなかったと考えられています。その理由として挙げられるのが、斎藤利三が明智光秀に仕えた期間の短さです。

斎藤利三が明智光秀のもとで活躍するのは1580年(天正8年)、「本能寺の変」のわずか2年前。しかもその2年間、明智光秀は戦争らしい戦争に参加していません。つまり斎藤利三は、軍師としての実績はほとんどなかったのです。ところが皮肉なことに、本能寺の変のあとに明智光秀が討たれたことで斎藤利三は、優れた戦略家であったと評価されるようになったのです。

斎藤利三は美濃国(現在の岐阜県南部)の名門、「斎藤家」の出身。祖父の代から「白樫城」(しらかしじょう:岐阜県揖斐川町)を居城としていました。

成人した斎藤利三は、「室町幕府」の「奉公衆」(ほうこうしゅう:幕府直轄領の警備担当)でしたが、やがて「美濃のマムシ」の異名で恐れられた「斎藤道三」(さいとうどうさん)の長男、「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)に仕えます。その子であった「斎藤龍興」(さいとうたつおき)が織田信長に討たれると、斎藤利三は、同じく美濃の「稲葉一鉄」(いなばいってつ)のもとへ。

稲葉一鉄は斎藤利三を高く評価しており、自分の娘(姪という説もあり)を斎藤利三に嫁がせています。しかし、手柄を立てても褒美が少ないことを不満に思った斎藤利三は、当時売り出し中の武将、明智光秀に仕えることにしたのです。

織田信長に殴られても欲しかった男

明智光秀

明智光秀

この頃の武士は、好待遇を求めて主君を変えることは当たり前。むしろ、様々な武将から「うちに来ればもっと良い待遇を用意してやる」と誘われることは、武士のステータスでした。その辺りは、現在の外資系企業のようです。

実際、斎藤利三は、今風に言えば「できる」武将でした。織田信長も斎藤利三を高く評価しています。そんなエリートであったため、稲葉一鉄も手放したくありません。

そこで稲葉一鉄は織田信長に、「明智光秀のやつに、斎藤利三を返すよう言ってやって下さいよ」と訴え出ます。現代で例えるのであれば、他部署にエリート社員を引き抜かれた部長が、社長に泣き付くような状況です。織田信長は明智光秀に、斎藤利三を稲葉一鉄のもとへ戻してやれと命じますが、明智光秀はこれを拒否。腹を立てた織田信長が明智光秀を殴り、これが本能寺の変の引き金になったという説もあります。織田信長の命に背いても手下にしたいほど、明智光秀は斎藤利三の能力を買っていたのです。

難題を任された明智家のルーキー

合戦で荒廃した土地を治める

この頃、明智光秀は、とにかく優秀な人材が必要でした。当時、織田信長から丹波国(現在の京都府中部、及び兵庫県北東部)の攻略を命じられた明智光秀は、4年かかってようやく丹波の制圧に成功。この功で明智光秀は丹波国を与えられましたが、城の運営には、城を攻めることとはまた、別の才能を持つ人材が必要だったのです。そして1580年(天正8年)、明智光秀が苦労して手に入れた丹波の「黒井城」(兵庫県丹波市)の運営は、同じく苦労して採用したルーキー・斎藤利三に任されました。

城の運営と言うと、高い天守から城下を見渡して年貢を徴収せよと命令する姿をイメージしがちですが、この黒井城の場合、事実はまったく異なります。長い攻防戦の結果、城門や城壁はボロボロ。周囲の民家は焼け、田畑も荒れ果てていました。そんな状態で城に入った支配者を、住民が歓迎するはずがありません。

そんななかで斎藤利三は、城の近くにあった屋敷を修復して拠点とし、様々な政策を打ち出しました。例えば明智軍が基地として使った寺に「人足役」(にんそくやく:税として課される労働)を免除する政策には、地元の人々と上手くやっていこうとした斎藤利三の苦労がしのばれます。戦で手に入れた国の運営は、ある意味、城を落とすよりも難しい仕事だったのです。

斎藤利三の幸せな日々

そこからしばらく、斎藤利三にとって平和な日々が続きました。当時一流の茶人であった「津田宗及」(つだそうぎゅう)を招いて茶会を開いたのもこの頃。またこの丹波の地で、愛娘の「お福」(おふく)を授かっています。しかしこれらも、つかの間の幸福でした。

本能寺の変と斎藤利三

採用されなかった斎藤利三の言葉

本能寺の変

本能寺の変

1582年(天正10年)に、斎藤利三を取り巻く状況が急変。6月1日、明智光秀が斎藤利三ら5人の側近を集めて、織田信長への謀反を打ち明けます。

最初、斎藤利三は断固反対でしたが、周囲の側近が同意したため、最後には腹を決めました。ここでの斎藤利三は、軍師としての働きができなかったと言えるのです。翌日、13,000人の明智軍は、「本能寺」(京都府京都市中京区)を襲撃。このとき、真っ先に突入したのが斎藤利三でした。

本能寺の変後、明智光秀は「安土城」(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)に入り、朝廷に対して自らが天下を治めるための工作活動を開始。そのとき、明智光秀と朝廷の仲介役を務めた「吉田兼見」(よしだかねみ:京都・吉田神社の宮司)は、明智光秀から「斎藤蔵助、今度謀反随一」と聞いたという記録が残っています。

これは謎が多い言葉で、「このたびの謀反の張本人は斎藤利三である」とする解釈もあれば、単に「このたびの謀反で最も活躍したのは斎藤利三である」とする解釈もあり、本能寺の変にまつわる大きな謎となっています。

再び聞き入れられなかった斎藤利三の進言

一方の斎藤利三は本能寺の変のあとに、洞ヶ峠(ほらがとうげ:京都府八幡市大阪府枚方市の間にある峠)に陣を敷いて、追手を警戒していました。しかし予想をはるかに上回るスピードで羽柴秀吉軍が攻めてくることを知り、ゆっくり工作をしている場合ではないと判断。明智光秀に対して、その居城であった「坂本城」(滋賀県大津市)に入り、戦闘体制を敷くように進言。

これぞ軍師・斎藤利三と言える行動です。しかし、明智光秀はそれをあっさり無視。全軍にすぐ山崎(京都府乙訓郡大山崎町)に集結して、羽柴軍を迎え撃つよう命じています。謀反の前後で、斎藤利三は明智光秀に2度も進言を聞いてもらえなかったのです。それでも斎藤利三は主君に従って立派に戦いましたが、「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)で羽柴軍に捕らえられ、京都で処刑されました。

英雄になった父と仇を取った娘

春日局

春日局

斎藤利三の進言を明智光秀が聞かなかったことについて、1626年(寛永3年)に「太閤記」(たいこうき:豊臣秀吉の伝記)を記した「小瀬甫庵」(おぜほあん)は、「明智光秀が斎藤利三の言うことを聞いて坂本城に籠って戦えば、また違った展開があったものを」と評しています。このように斎藤利三は、江戸時代になってから再評価された武将だったのです。

また黒井城で生まれたお福は、のちに「江戸幕府」3代将軍となる「徳川家光」(とくがわいえみつ)の乳母(うば/めのと:母親代わりとなって子を育てる女性)として、「徳川将軍家」に召し抱えられました。お福がそこまで評価された理由は、お福自身の高い教養や夫「稲葉正成」(いなばまさなり:稲葉一鉄の孫)の戦功があったからです。さらにもうひとつ、勇猛の士として名高い斎藤利三の娘というのも大きな理由であったと言われています。

その後、お福は朝廷から「春日局」(かすがのつぼね)の名を賜り、初期の徳川政権を支えました。春日局は、こうして豊臣秀吉に対して父の敵討ちを果たしたのかもしれません。

なお、春日局の息子「稲葉正勝」(いなばまさかつ)は徳川家光に仕え、その子孫である「稲葉正綱」(いなばまさつな)の頃に、明治時代を迎えています。

斎藤利三-家系図

斎藤利三 家系図

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