「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)は1538年(天文7年)、肥前国(現在の佐賀県、及び長崎県)生まれ。「龍造寺家/竜造寺家」の軍師として9歳年上の義兄、「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)に仕えました。「動」の大将・龍造寺隆信と「静」の軍師・鍋島直茂のコンビは九州北部を舞台に暴れまくり、龍造寺家は、1580年代に最盛期を迎えます。しかし、豊臣秀吉が九州を支配したとき、龍造寺隆信の子がいるにもかかわらず肥前国の支配を命じられたのは、軍師の鍋島直茂でした。これはもちろん、鍋島直茂の裏切りではありません。それではなぜ、そんな逆転現象が起こったのか、鍋島直茂の生涯を辿りながら解説します。
25歳の若武者、龍造寺隆信が故郷の肥前を奪回したのは1553年(天文22年)。16歳の鍋島直茂は、この合戦で初陣を飾っています。
鍋島直茂は幼い頃から思慮深い上に、曲がったことが大嫌い。軍師の器量を十分に備えていました。最初にそれを見抜いたのは、龍造寺隆信の母「慶誾尼」(けいぎんに)です。
慶誾尼は、鍋島直茂なら自分の子をしっかり支えてくれるに違いないと考えました。そのためには、鍋島直茂と龍造寺隆信を近付けなくてはなりません。そこで慶誾尼は、1556年(弘治2年)、鍋島直茂の父「鍋島清房」(なべしまきよふさ)に結婚を迫ります。2人を義兄弟にして接近させようという、前代未聞の作戦です。当時、女性からの求婚はかなり常識外れの行為でした。ところが、これが功を奏して鍋島直茂は、継母の期待を上回る大活躍をすることになります。
1558年(弘治4年/永禄元年)に鍋島直茂は、龍造寺家に仕えていた家臣のひとり、「八戸宗暘」(やえむねてる)が謀反を企てていることを察知し、龍造寺隆信に報告。しかし、八戸宗暘の后は龍造寺隆信の妹であったため、周囲は誰も信じません。ところが龍造寺隆信は、義弟・鍋島直茂の言葉を信じ、すぐに討伐隊を派遣。すると八戸宗暘は、「八戸城」(やえじょう:佐賀県佐賀市)に立て籠もって猛烈に反撃します。つまり、鍋島直茂の情報は正しかったのです。
討伐隊に加わっていた鍋島直茂は、城の周囲に風上から火を放ち、城ごと燃やしてしまいました。軍師の言葉を信じる大将と、主君のために手段を選ばない軍師。ここに、戦国九州を代表する名コンビが誕生したのです。
そのあとは一進一退の戦いが続き、1569年(永禄12年)には龍造寺家の居城であり、「佐賀城」(佐賀県佐賀市城内)の前身「村中城」(別称[佐嘉城]、[佐賀龍造寺城])周辺が、大友方によって火の海に。村中城は窮地に陥ったのです。
翌1570年(永禄13年/元亀元年)には、大友宗麟の弟「大友親貞」(おおともちかさだ)を大将とする大軍が、再び村中城を包囲し、龍造寺方は絶体絶命のピンチに。そのときに鍋島直茂が考えた作戦が、決死隊による夜襲でした。
ある日の夕方、鍋島直茂はわずかな兵と共に城を脱出。計画を知った龍造寺方の武将も次々と加わり、やがて800名近い軍勢になりました。そして夜が更けるのを待ち、いっせいに大友軍の本陣を急襲。大将を討たれた大友軍は、総崩れになりました。
「今山の戦い」(いまやまのたたかい)と称されるこの合戦での勝利を記念し、鍋島直茂は家紋を「鍋島花杏葉」(なべしまはなぎょうよう)に変更。これは、大友家の家紋に用いられていた、「抱き杏葉」(だきぎょうよう)の意匠をもとに作られた家紋です。こうすることによって鍋島直茂は、大友軍を撃退した上に、先祖代々の家紋まで奪い取ったことを世間に広く知らせたのです。
これは、大友家にとって大きな屈辱でした。その後も鍋島花杏葉は、鍋島家のトレードマークになっています。
火攻めや籠城、夜襲、そして家紋の収奪。敵を討つために、あらゆる手段を駆使した鍋島直茂は、戦わずして勝つ「謀略」(ぼうりゃく:人を欺くような企み)もお手の物でした。1574年(天正2年)の「須古城」(佐賀県杵島郡)攻めでは、城主「平井経治」(ひらいつねはる)の弟「平井直秀」(ひらいなおひで)に接近して龍造寺方へと寝返らせ、同城をまんまと攻略しています。
鍋島直茂の奮闘のおかげで、龍造寺家は急激に勢力を拡大。1580年(天正8年)頃までに龍造寺隆信は、肥前国に加えて筑前国(現在の福岡県西部)や筑後国(現在の福岡県南部)、肥後国(現在の熊本県)、豊後国を支配し、有力大名の仲間入りを果たします。
しかし、これで安心はできません。一手先を読んでいた鍋島直茂は、次に「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの[豊臣秀吉])に接近を図ります。当時、羽柴秀吉は、中国地方を治めていた「毛利元就」(もうりもとなり)と交戦状態にありました。龍造寺家から見れば、毛利元就はいつ九州に攻め込んでくるか分からない強敵。そのため、鍋島直茂は「敵の敵は味方」の理屈で、羽柴秀吉と手を組もうとしたのです。しかもこれは、羽柴秀吉よりも脅威であった「織田信長」が必ず九州に攻めてくることを予想し、早めに「織田家」に取り入っておくことを考えた、鍋島直茂の判断でした。この時期にここまで先を読んで行動できるのは、さすが名軍師です。
しかし、この頃から名コンビの間にヒビが入り始めます。「九州の盟主」と周囲からおだてられた龍造寺隆信は、毎晩遊興にふけるようになったのです。鍋島直茂が注意しても聞かず、逆に鍋島直茂は、遠方の城に左遷されてしまいました。またこの頃、龍造寺隆信は、長く仕えてきたにもかかわらず、気に入らない家臣を謀殺。これによって家臣達の心は、主君・龍造寺隆信から徐々に離れていったのです。
1584年(天正12年)、龍造寺方の「有馬晴信」(ありまはるのぶ)が、九州南部を統治していた武将「島津家久」(しまづいえひさ)方に寝返ると、龍造寺隆信は自ら兵を率いて討伐に向かいます。鍋島直茂は「来るな」と言われたにもかかわらず、馬を走らせて戦場へ。
鍋島直茂としては、このような小さな戦は部下に任せ、大将はもっと大所高所(たいしょこうしょ:細部にとらわれない、広く大きな観点による立場)から戦略を考えるべきと伝えたかったのです。しかし龍造寺隆信は、この合戦中に落命してしまいました。知らせを聞いた鍋島直茂はあとを追おうとしますが、家臣に止められて思いとどまります。これによって龍造寺家は多くの領地を失いましたが、鍋島直茂は、跡を継いだ「龍造寺政家」(りゅうぞうじまさいえ)を補佐し続けました。
その後、織田信長に代わって天下を統一した豊臣秀吉は、九州について「龍造寺政家は隠居し、代わりに鍋島直茂に国を任せよ」と命令。さすがに豊臣秀吉は、軍師として、そして大将としての鍋島直茂の器量をよく理解していました。龍造寺政家が龍造寺家の当主の座に就いてからは、鍋島直茂が同家の実質的なトップとなったのです。
その一方で鍋島直茂は、一武将として「文禄・慶長の役」(ぶんろく・けいちょうのえき:豊臣秀吉による朝鮮出兵)に参加。鍋島直茂はプレーイングマネージャーのような立場で活躍しました。
1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」以降、鍋島直茂は「徳川家康」の九州支配に協力し、「徳川家」と敵対する大名の居城を次々と落とし続けました。「豊臣家」が駄目ならすぐに方向転換する冷徹な判断力のおかげで、龍造寺家は、戦国の世を生き抜くことができたのです。
江戸時代に入ると龍造寺政家の四男「龍造寺高房」(りゅうぞうじたかふさ)が、肥前藩(現在の佐賀県:別称[佐賀藩])龍造寺家の復権を江戸幕府に願い出ます。
ところが幕府から、逆に「もういい加減、鍋島家に政権を禅譲[ぜんじょう:譲り渡すこと]しなさい」と諭されて(さとされて)しまったのです。
こうして肥前は、名実共に鍋島家の領地として幕末まで続くことになります。しかし鍋島直茂は、亡き義兄・龍造寺隆信に遠慮し、自ら肥前藩主になることは最後までなかったのです。