一般的に「軍師」とは、合戦において「どのように敵を攻撃すれば、戦いが自軍に有利かを考え、大将に進言する人」というイメージを持つ人が多いのではないでしょうか。しかし実際には、合戦以外で力を発揮する軍師もたくさんいました。その代表格が、「徳川家」の軍師として名高い「本多正信」(ほんだまさのぶ)です。徳川家が天下を統一する道のりの中、武力ではなく高い政治力で敵方の武将や朝廷と交渉。NHK大河ドラマ「真田丸」(さなだまる)では、役者の「近藤正臣」(こんどうまさおみ)さんが飄々とした演技で、武人ではない雰囲気を上手く表現していました。真田丸でも描かれたように徳川家の重臣であった本多正信が、江戸幕府の基礎を内側からどのように固めたのか、その人生を振り返りながらご説明します。
本多正信は1538年(天文7年)生まれ。「徳川家康」(とくがわいえやす)より5歳年上です。徳川家康との出会いは、1563年(永禄6年)に起きた「三河一向一揆」(みかわいっこういっき)でした。
三河国(現在の愛知県東部)において、浄土真宗の門徒が領主に起こした反乱であるこの一揆は、徳川家康が鎮圧しましたが、実はこの反乱軍のなかに本多正信がいたのです。
そんな本多正信はもともと、徳川家に仕える家臣「大久保忠世」(おおくぼただよ)と知り合いでした。翌1564年(永禄7年)に本多正信は大久保忠世から強く推薦され、徳川家康によって引き抜かれたのです。
当初、本多正信は「鷹匠」(たかしょう:狩猟用の鷹の飼育、訓練を担当する専門家)として採用されました。しかし、すぐに徳川家康に認められ、軍師の大役を担うようになったのです。加えてこの頃、徳川家康が「本多正信は私の朋友」と公言したことが、多くの記録に残されています。
実際に、2人が「心の友」と言えるような関係だったことが窺えるのが、それぞれが用いていた家紋です。徳川家の家紋が「三つ葉葵」であるのに対し、本多正信の家紋は「丸に立ち葵」でした。家臣が葵紋の使用を許されるのは、異例中の異例。それほど徳川家康は、本多正信を信頼していたのです。
1582年(天正10年)に「織田信長」が「本能寺の変」によって亡くなると、徳川家を取り巻く環境が激変。それまで「豊臣秀吉」と徳川家康は、織田家の家臣として同等の立場でしたが、一気に天下統一を目指すライバル同士になってしまいました。
豊臣秀吉に対抗するために徳川家康は、三河周辺における大名との争いの種は極力排除することを決意。
周辺諸国の大名に対し、「本領安堵」(ほんりょうあんど:領地の所有を保証すること)と引き換えに、徳川家の傘下へ入るように勧告します。
この難しい交渉を担当したのが本多正信でした。こうした活躍が評価された本多正信は、「玉縄城」(たまなわじょう:神奈川県鎌倉市)を徳川家康から与えられ、10,000石の大名に取り立てられたのです。
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」において本多正信は、徳川家康の三男であり、のちに江戸幕府2代将軍となる「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に従軍。
途中、徳川秀忠は、「真田幸村」(さなだゆきむら:別称[真田信繫:さなだのぶしげ])の「上田城」(長野県上田市)で足止めされ、合戦に遅刻するという大失態を演じてしまいました。
このとき、「上田城を放置して関ヶ原に急ぐべし」と進言した本多正信に対し、徳川秀忠が強引に城攻めを主張した逸話が残っています。このような背景により、本多正信は、徳川秀忠のことを良く思っていなかったのです。
事実、関ヶ原の戦いの直後に徳川家康が、自分の後継者は誰にすべきかを家臣に尋ねたところ、本多正信は徳川家康の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)を推薦。結局、大久保忠世の長男「大久保忠隣」(おおくぼただちか)が推す徳川秀忠が、徳川家の跡継ぎに指名されました。
本多正信は、関ヶ原の戦いで敵対した西軍に属する大名の処分を行うと同時に、徳川家康が将軍の座に就けるように、朝廷に対して粘り強く交渉を行いました。この頃から、本多正信は、巧みな交渉術と謀略(ぼうりゃく:人を欺くような企み)で人を操り、徳川家による政治機構を築くことに力を入れ始めます。こうして本多正信は、徳川家の参謀としての地位を盤石にしていったのです。
1603年(慶長8年)に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた徳川家康は、1607年(慶長12年)には隠居し、「駿府城」(すんぷじょう:静岡県静岡市葵区)に入城。徳川秀忠が2代将軍となりましたが、その後も政治を動かしたのは、「大御所」(おおごしょ:将軍を退いたあとの呼び名)の徳川家康でした。
徳川家康の命令は、駿府城にいた本多正信の長男「本多正純」(ほんだまさずみ)を通して「江戸城」(東京都千代田区)の本多正信に伝わり、ようやく徳川秀忠に届くという仕組みが採られていたのです。これでは誰が見ても徳川秀忠はお飾りで、立場的に本多親子より下であることが分かります。そんな状況下で徳川秀忠は、ストレスを溜め込んでいきました。
そんなことも知らず、本多正信はやりたい放題。1613年(慶長18年)、大久保忠隣に謀反の噂が流れたとき、本多正信はそれを否定せず、ここぞとばかりに悪口を言いふらします。このような経緯によって本多正信は、大久保忠隣を失脚に追い込んでしまったのです。
本多正信の絶頂期は、徳川家が「豊臣家」を滅ぼした「大坂の陣」で迎えました。1614年(慶長19年)に起こった「大坂冬の陣」で、徳川秀忠が徳川家康のやり方に異を唱えると、本多正信は「まあまあ、ここは御父上の指示に従われよ」とたしなめます。通常であれば、現役の将軍に意見するのは、あってはならないこと。この逸話だけでも、本多正信の力は相当なものであったことが窺えるのです。
翌1615年(慶長20年/元和元年)の「大坂夏の陣」では、本多正信は甲冑(鎧兜)も着けず、羽織袴に飾太刀(かざりたち:儀式用の刀剣)を腰に帯びた恰好で戦陣に登場。さらには「払子」(ほっす:動物の毛や麻を束ねて柄を付けた道具)でハエを払いながら悠然と歩いてきたと記録に残っています。
その姿は、とても戦場に向かう武将ではありません。いくら徳川家康の「朋友」であったとはいっても、このような振る舞いを重ねていた本多正信は、周囲の武将達から強い反感を徐々に招いていったのです。
本多正信は若い頃から、他の武将に妬まれることを恐れていました。そのため、どれだけ役職が上がっても、禄高22,000石以上はもらわないようにしており、徳川家康から直々に加増の提案を受けても断っていたのです。長男の本多正純にも、「30,000石以上になったら危険だと思え」と言い聞かせていました。
しかし、周囲からの反発は日増しに高まります。特に大久保忠隣を失脚させた一件は決定的でした。大久保忠隣は、本多正信を徳川家に推薦した大久保忠世の子であり、幕府内でもとても人望の篤い人物であっただけに、本多正信の評価は地に落ちてしまったのです。
あるとき、徳川秀忠の乳母(めのと:育ての母)「大姥局」(おおうばのつぼね)が食事の際に自分で飯をお椀によそうと、それを見た本多正信が「そなたのような身分の方がすることではない」と注意します。すると大姥局は「毎日の食事に困っていた三河のことを忘れないよう、自分でご飯をよそうのです。もしやそなたは、鷹匠だった頃のことをお忘れか?」と反論。本多正信は何も言えず、その場を立ち去りました。
戦国時代から江戸時代初期にかけて、徳川家が日本を支配するために仕組みを構築する過程において、本多正信は必要不可欠な人材でした。それは、教科書にも出てきた徳川家康の名言「百姓は生かさず殺さず」からも窺えます。
徳川家康が言ったとされるこの言葉は、実は年貢の額を決めるために、本多正信が定めた基本方針だったと言われているのです。なお、この名言は、「農民には財を余らせないよう、不足することがないように税を納めさせるべき」というのが、本来の意味であったと推測されています。
そののち、江戸幕府が成立して将軍が新しい政治を行う時代に、老兵となってしまった本多正信は、もう必要ありませんでした。1616年(元和2年)に徳川家康が没すると、2ヵ月後には、本多正信もあとを追うように他界。その直後、本多正純は父の教えに背いて50,000石への加増を承諾します。
そして数年後、150,000石の大名になったところで本多正純は、徳川秀忠への謀反の疑いをかけられて全財産を没収されてしまいます。そして最後は、出羽国・横手(現在の秋田県横手市)の粗末な家屋に幽閉されたまま、その生涯を終えました。