戦国随一の知恵者として知られる「島左近/嶋左近」(しまさこん)の生誕年には諸説あり、1540年(天文9年)、もしくは1543年(天文12年)生まれと伝えられています。島左近は、大和国(現在の奈良県)の「筒井順慶」(つついじゅんけい)に仕えたのちに主君を何度も変え、破格の待遇で「石田三成」(いしだみつなり)に、家臣として迎えられたのです。歴史で「たら・れば」を言っても意味はないかもしれませんが、もし島左近の仕官した大将が、曲がったことが嫌いで一本気な石田三成でなければ、日本の歴史は大きく変わっていたのではないでしょうか。そんな風に想像を掻き立ててくれる名軍師・島左近の生涯をご説明すると共に、その子孫達についてもご紹介します。
1582年(天正10年)に「本能寺」(京都府京都市中京区)において、「織田信長」が「明智光秀」(あけちみつひで)に討たれた事件、いわゆる「本能寺の変」が起こります。
そのあと、次の天下人の座をめぐり、明智光秀と「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの[豊臣秀吉])の間で戦が勃発。明智光秀は、戦場の近くにある「洞ヶ峠」(ほらがとうげ:京都府八幡市と大阪府枚方市の境に位置する峠)に陣を敷いていた筒井順慶に対して、再三の応援要請を出します。しかし、筒井順慶は一歩も動きません。これは「筒井家」に仕える軍師「島左近」が、明智光秀の負けを見越して、「今は動くべきではありません」と指示したからだと言われているのです。
島左近は異名であり、その本名は「島清興」(しまきよおき)と伝えられています。島左近と共に筒井家の両翼と目されていた武将、「松倉勝重」(まつくらかつしげ:別称「松倉重信」[まつくらしげのぶ])が、通称「右近」と呼ばれていたことが、「左近」と呼ばれるようになった由来です。
1584年(天正12年)に筒井順慶が亡くなったあと、島左近は1588年(天正16年)に、筒井家を離れています。全国を放浪して次の仕官先を探すことが目的でした。そんなとき、島左近に声を掛けてきたのが、豊臣秀吉の家臣「石田三成」です。
しかし、島左近は当初、石田三成からの誘いを拒否しています。その理由は、石田三成の理想主義者的な性格が自分と合わないと思ったからとも、本当は豊臣秀吉に仕官したかったからとも言われますが、はっきりとした理由は分かりません。
ところが諦めなかった石田三成は、自身の禄高が当時40,000石だったのにもかかわらず、その半分の20,000石を与える条件を出してきました。
現代で例えると、「年間売上の半分を出すから当社に来ませんか」と言われるぐらい、超破格の待遇だったのです。島左近もここまで期待されて、さすがに嫌とは言えません。そして島左近は、「石田家」の軍師となることを承諾したのです。これを聞いた豊臣秀吉は、そこまでの覚悟で優れた軍師を雇った石田三成に感激。1595年(文禄4年)、石田三成に「佐和山城」(滋賀県彦根市)と194,000石の俸禄を与えました。
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が病に倒れます。このときから、次の天下人を目指して活動を開始したのが「徳川家康」でした。
これを知った島左近は、「このままでは、いつか徳川家康が天下を取る。そうなれば、豊臣秀吉にもっとも可愛がられていた上様[石田三成]が、真っ先に殺される。しかし徳川家康は、上様がまともに戦って勝てる相手ではない。どうしたものか」と危機感を募らせます。
そこで島左近は、密かに徳川家康の暗殺計画を立て、豊臣秀吉が没した翌日、その実行の許可を主君・石田三成に求めたのです。しかし石田三成は、これを即座に却下。「暗殺は姑息な手段であり、私は好きではない」というのがその理由。ここが現実主義者の島左近と、理想主義者である石田三成の違いであり、仕官前の島左近による予想が当たってしまったと言えるのです。
島左近と石田三成、この2人の思惑とは関係なく、時代は激しく動き続けました。最後まで「豊臣家」を支えてきた老将「前田利家」(まえだとしいえ)までが他界すると、いよいよ豊臣家は大混乱。これまで石田三成を良く思っていなかった豊臣家の家臣らが、石田三成を襲撃したのです。
その犯人は「加藤清正」(かとうきよまさ)や「福島正則」(ふくしままさのり)など、豊臣家に仕えた家臣団を代表する7名の武闘派集団。石田三成は、絶体絶命のピンチに陥ります。すると島左近は、誰もが耳を疑う打開策を石田三成に進言します。「こうなれば、家康公の屋敷に逃げ込みましょう!」
このときに島左近は、「徳川家康は世間体を気にするため、助けを求めてきた者を見捨てることはしない。むしろ助けておき、犯人グループの憎しみを維持させたほうが好都合と計算するはず」と考えたのです。その目論見通りに徳川家康は、「石田三成は佐和山城で謹慎させるから許してやれ」と7名の武将達に告げ、この事件は収まります。しかし、島左近は転んでも、ただでは起きない男。交渉の隙を見て徳川家康の暗殺を企て、石田三成に提案しますが、これも却下されてしまいました。
なお、島左近は、この石田三成襲撃事件を予期していたかのような名言を残しています。
「ただ城下の繁栄に驕って下々の憂苦を思わず、武具にのみ力を入れて城郭を構築しても、徳と礼儀がなければ、甚だ[はなはだ]危うい」
この言葉が意味しているのは、人の上に立つ者は現状だけを見て満足するのではなく、その配下の者達にも、徳と礼儀をもって接するのが重要だということ。石田三成は政治面では優秀でしたが、家臣達に対する態度は横柄なものでした。島左近は、そんな主君・石田三成を戒めるために、このような言葉を発したと考えられるのです。
石田三成が謹慎すると、徳川家康は豊臣家の居城であった「大坂城/大阪城」(大阪市中央区)に移り、豊臣家から政治の実権を奪っていきました。さすがの石田三成も我慢できなくなり、諸大名に働きかけて「打倒・徳川家康」の工作を開始します。しかし、それはあくまでも、正々堂々と戦って勝つことが目的だったのです。
1600年(慶長5年)5月、豊臣政権において会津(現在の福島県)120万石を領していた「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が、謀反の疑いをかけられます。徳川家康は上杉景勝を討つため、わずかな手勢と共に大坂から江戸に出発。それを知った島左近は、徳川家康の討伐を目的に、「石部宿」(いしべしゅく/いしべじゅく:滋賀県湖南市)へ約3,000名の兵を差し向けることを石田三成に提案します。
もちろん石田三成は、これまでと同様に却下。あとから考えれば、これが徳川家康を討つ最後のチャンスでした。当時の「落首」(らくしゅ:風刺や批判を込めて読まれた匿名の戯歌[ざれうた])が、その状況をよく表しています。
「三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城」
真面目すぎた石田三成にとって、有能な部下である島左近と壮麗な佐和山城は、非常にもったいない存在だったのです。
1600年(慶長5年)9月15日、天下分け目となる「関ヶ原の戦い」の朝を迎えます。しかし、実はその前日に、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)の少し東に位置する「杭瀬川」(くいせがわ)付近で前哨戦が行われていたことは、あまり知られていません。
14日正午、「東軍」の総大将・徳川家康は、赤坂岡山(岐阜県大垣市)に陣を敷きます。一方、石田三成を総大将とする「西軍」は「大垣城」(岐阜県大垣市)に集結していました。赤坂岡山と大垣城の距離は約4.5km。山上に徳川家康の家紋「三つ葉葵紋」が配された「旗標/旗印」(はたじるし)が翻る(ひるがえる)と、西軍兵士の間に動揺が走ります。これを察知した島左近は、仲間を勇気付けるために、500名ほどの兵を率いて大垣城を出立(しゅったつ:出発すること)。赤坂岡山と城の中間を流れる杭瀬川を越えて、東軍の「中村一栄」(なかむらかずしげ)陣の目前まで進み、悠然と稲刈りを始めました。
これは、誰が見ても明らかな挑発です。中村隊が銃撃を開始すると、島隊は一気に逃走。中村隊が杭瀬川を渡って追撃すると、草むらに隠れていた島隊の兵士達が、いっせいに中村隊を銃撃。それを見て東軍の「有馬豊氏」(ありまとようじ)が加勢すると、今度は西軍の「明石全登」(あかしてるずみ)隊が、別の場所から集中砲火を浴びせます。
徳川家康は、山の上からこの一部始終を見ていました。最初は中村隊の優勢ぶりに、上機嫌だった徳川家康でしたが、島隊の紋章である「丸に三つ柏」が、徐々に押し返して来るのを見て、逃走が島左近の計略だったことに気付きます。
徳川家康はすぐに、中村・有馬両隊に撤退を命令。しかし、時すでに遅しの戦況となっており、東軍は40名ほどが討ち取られてしまいました。西軍が圧倒的な勝利を収めましたが、島左近が率いたこの杭瀬川の戦いが、関ヶ原の戦いにおける西軍唯一の勝利だったのです。
翌15日の関ヶ原の戦いにおいて島左近は、後世まで語り草になるほどの凄さまじい活躍を見せ、最後は銃弾に倒れたと伝えられています。ところが、遺体が発見されなかったため、島左近が生き延びた噂が各地に残っているのです。ここまでご説明したことからも分かる通り、島左近は、溢れんばかりの知恵を持て余した「戦国の英雄」でした。各地で語り継がれるこの島左近の伝説は、優れた戦国武将の島左近には亡くなってほしくないという願望が、生み出したのかもしれません。
なお、関ヶ原の戦いでは島左近と共に、長男の「島新吉」(しましんきち:別称「島信勝」[しまのぶかつ])も亡くなりました。また、次男の「島忠正」(しまただまさ)は母と共に安芸国(現在の広島県)へと逃亡。そのあと、1675年(延宝3年)、島忠正の孫にあたる「島晴正」(しまはるまさ)が酒造業を開始し、現在でも「白牡丹酒造」(しろぼたんしゅぞう:広島県東広島市)として営業を続けています。