戦国きっての名軍師「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)は、美濃国(現在の岐阜県南部)の出身。身体が弱く、きゃしゃな風体は「女性のよう」と形容されたほどの美男子でした。しかし恐ろしいほどの知恵者で、若くして「斎藤龍興」(さいとうたつおき:斎藤道三[さいとうどうさん]の孫)に仕えた頃には「織田信長」(おだのぶなが)軍を撃退したという話が残っています。その後は「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉[とよとみひでよし])にスカウトされ、軍師として日本中を駆け巡ります。同じ秀吉軍の軍師であった「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)とともに「両兵衛」と並び称されました。
戦国武将と言えば、荒々しい武芸の達人を想像します。しかし「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)は真逆で、普段からものしずかで武芸よりも読書が好き。特に「武経七書」(ぶけいしちしょ:中国の兵法書[へいほうしょ:戦時における兵の用い方を説いた書])を愛読し、19歳で竹中家を継いだ頃には斎藤家の中でもその知略は誰もが認めていました。
そんな竹中半兵衛は、曲がったことが大嫌い。1564年(永禄7年)、主君の斎藤龍興が酒色におぼれてまともに政治をしないことに腹を立てた竹中半兵衛は、わずか16名の手勢と共に登城し、大胆にも稲葉山城(岐阜県岐阜市。のちの岐阜城)を占拠してしまったのです。
そして斎藤龍興に「危険ですからひとまず城外にお逃げ下さい」と告げ、城から追い出してしまいました。
稲葉山城と言えば、のちに織田信長が天下統一を開始させた名城。竹中半兵衛が乗っ取ったという知らせを聞いた織田信長は「城をわしに譲り渡せば美濃の国を半分与えよう」と交渉しますが、竹中半兵衛はこれを拒否。
「私は主君に反省を促すために預かっただけ」と言って半年後には斎藤龍興に城を返し、自分は責任を取って隠棲(いんせい:俗世間を離れてひっそり暮らすこと)してしまいました。
竹中半兵衛の出番はすぐに訪れました。織田側の武将であった近江国(現在の滋賀県)の「浅井長政」(あざいながまさ)が、突然朝倉側に寝返ったのです。
浅井長政は織田信長の妹「お市の方」(おいちのかた)の夫でしたから、裏切るはずがないと思っていた織田信長は激怒。すぐに全軍を挙げて浅井長政討伐を開始します。
両軍は近江国の姉川(あねがわ)をはさんで対峙。このとき竹中半兵衛は騎馬武者を2つに分け、前方に半分を配し、残りを円形にして豊臣秀吉を囲んで攻め込むという変則的な陣形を提案しました。
こうして全方位の敵に合わせて円を自由自在に伸縮させるという戦法で、秀吉軍は大活躍します。敗れた浅井軍は「小谷城」(おだにじょう:現在の滋賀県長浜市)に逃げ込み、籠城(城に立て籠もること)を始めます。
1572年(元亀3年)、織田信長は小谷城攻めを開始。しかし、これにはきわめて難しい問題がありました。そもそも籠城した敵を攻めること自体が難しいのに、浅井長政のもとにはお市の方と3人の娘がおり、簡単に攻め込むことができなかったのです。当然、織田信長が豊臣秀吉に下した命令は「浅井長政は亡き者に。しかし妹とその娘達は助けよ」という無茶な指令でした。
そこで軍師・竹中半兵衛が立てた作戦は、最初に浅井長政の父「浅井久政」(あざいひさまさ)を討ち取ることに。浅井久政は、昔馴染みで同盟相手となる朝倉家寄りの上に、大名としては新参者となる織田信長を嫌悪していました。下手に攻め込むと、織田家の人質もろとも自決する可能性が十分にあったのです。
翌1573年(天正元年)のこと、秀吉軍のもとに浅井長政が小谷城の本丸、浅井久政が小丸(こまる:小さい櫓)にいるという情報が届きました。
作戦決行の好機とみた竹中半兵衛は夜間に小丸に奇襲をかけて浅井久政を討ち取ります。翌朝、織田信長は降伏を勧めましたが、浅井長政はこれを拒否。それと同時に秀吉軍が本丸に突入して浅井長政を自刃に追い込み、直前に解放されたお市の方と3人の娘を無事に救出しました。すべて竹中半兵衛の計画通りとなったのです。
その後も竹中半兵衛は豊臣秀吉と全国を駆け巡り、織田信長の天下統一を支えます。そんな竹中半兵衛最大の見せ場が、1577年(天正5年)から始まる毛利氏(中国地方一帯を支配した戦国大名)との闘いでした。織田信長から毛利攻めを命じられた豊臣秀吉は、播磨国(現在の兵庫県南西部)を治める小大名に織田軍に味方するよう通達を出します。
これにすぐ応じたのが、「姫路城」(兵庫県姫路市)の黒田官兵衛でした。とは言え、黒田官兵衛が毛利方の間諜という可能性もあり、簡単に信用するわけにはいきません。
そこで竹中半兵衛は、黒田官兵衛に「福原城」(現在の兵庫県佐用町)攻めを任せ、その働きぶりから信用に値する人物かどうかを確かめることにします。この戦いで黒田官兵衛は見事な働きを見せ、福原城を攻略。竹中半兵衛は黒田官兵衛の実力と人となりを認め、ここに豊臣秀吉の名軍師となる「両兵衛」が誕生したのです。
翌年の1578年(天正6年)に、織田軍の配下「別所長治」(べっしょながはる)が突如として反乱を起こし、「三木城」(現在の兵庫県三木市)に立て籠もります。その攻略に向かった播磨国の大名「荒木村重」(あらきむらしげ)までが勝手に戦線を離れて国元に戻ってしまいました。
荒木村重と旧知の仲であった黒田官兵衛が、立て籠もりをやめさせるよう説得に向かいますが、逆に捕らえられてしまいます。黒田官兵衛が戻らないことを自分への裏切りだと判断した織田信長は、人質として預かっていた黒田官兵衛の子「松寿丸」(しょうじゅまる:のちの黒田長政[くろだながまさ])を始末しろと豊臣秀吉に命じました。
しかし、黒田官兵衛が裏切るはずがないと確信を持っていた竹中半兵衛は豊臣秀吉に「信長様には、命令通り手にかけたと報告して下さい」と告げ、こっそり自分の領地でかくまったのです。
のちに黒田官兵衛はとても感謝し、この恩を忘れないように竹中家が用いていた家紋のひとつ「黒餅」(こくもち)をもらい受け、自分の紋としました。
若い頃から戦に出るため日本中を移動していた竹中半兵衛は、疲労から体を患い、三木城攻めの最中に臥せることが多くなりました。竹中半兵衛を蝕んだのは、当時から治る見込みのない病とされてきた結核だったと伝わります。
豊臣秀吉は竹中半兵衛に療養するよう命令。ところが死期を悟った竹中半兵衛は、翌年の1579年(天正7年)には、病気をおして三木城攻めの陣に帰参。豊臣秀吉に「兵糧攻め」(食料の補給路を断って、敵の戦闘力を弱める戦法)をすべきと進言しています。
病気を心配する豊臣秀吉に、竹中半兵衛はひとこと「戦場で死ぬことこそ武士の本懐」と答えました。その数日後、陣に近い民家で豊臣秀吉に見守られながら36年という短い一生を終えます。三木城が陥落したのは、それから約半年後のことでした。