「山中鹿助」(やまなかしかのすけ)は、出雲国(現在の島根県東部)を支配した尼子氏の軍師。宿敵・毛利氏(中国地方全般を支配した戦国大名)によって尼子氏が滅ぼされたあと、復活を目指して何度も毛利家に戦いを挑んでいます。主君のために命をかけて戦地を駆け巡る山中鹿助の働きぶりはのちの世まで語り継がれ、江戸時代には多くの講談が作られ、明治時代には「日本の武士の鑑」として教科書に載っています。では山中鹿助とは、どんな人物だったのでしょうか。
「山中鹿助」(やまなかしかのすけ)は、1545年(天文14年)生まれ。2歳で父を亡くし、貧しい家で母の手ひとつで育てられました。1560年(永禄3年)、病弱な兄に代わって山中鹿助は15歳で山中家の当主になります。
このとき、山中家に伝わる三日月の前立(兜の正面の装飾)と鹿の角の脇立(兜の左右の装飾)がある兜を譲られ、これを機に「鹿助」(しかのすけ)を名乗るようになりました。
山中鹿助の初陣は、16歳のとき。その前夜、西の空にかかる三日月に向かって「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったのは有名な話です。
山中鹿助が仕えた尼子氏は、宇多天皇に源流を持つ名家。15世紀後半から月山富田城(がっさんとだじょう:現在の島根県安来市)を拠点に出雲国周辺を支配していました。一方、山中鹿助が尼子氏に仕えていた頃、中国地方で最も強い勢力を持っていた戦国大名が「毛利元就」(もうりもとなり)でした。
1555年(弘治元年)に、防長(ぼうちょう:周防と長門、現在の山口県)を制覇して瀬戸内海側を制覇した毛利元就は、徐々に山陰地方への侵攻を開始。1562年(永禄5年)、毛利元就は現在の松江市付近に進軍し、尼子氏の「白鹿城」(現在の島根県松江市)に攻撃をしかけます。
山中鹿助は、主君「尼子義久」(あまごよしひさ)に対して「これまでのような古い戦い方では勝てません。私が奇襲して撃退してみせます」と進言。しかし聞き入れてもらえず、尼子軍は10,000の兵を白鹿城に派遣しますが返り討ちにあってしまいます。それでも山中鹿助は、わずかな手勢で最も危険な殿(しんがり:部隊の最後尾)を務め、猛追する毛利軍から尼子軍を救いました。
主君を失ってからが、山中鹿助の物語の本番です。浪人(仕える家のない侍)となった山中鹿助は、全国を放浪しました。江戸時代の講談では「武田信玄」(たけだしんげん)や「上杉謙信」(うえすぎけんしん)に兵法を学び、近江国(現在の滋賀県)で10数名の盗賊をひとりで退治したということになっていますが、これらはあくまで創作。本当のところはよく分かっていません。
山中鹿助が歴史に再登場するのは、1569年(永禄12年)のこと。毛利軍が九州攻めに苦労している状況を尼子家復活の好機と判断した山中鹿助は、京都で僧侶となっていた尼子勝久の従兄弟を呼び戻して「尼子勝久」(あまごかつひさ)と名乗らせ、新たな尼子家の当主としたのです。
また山中鹿助は反毛利氏の武将に声をかけ、集まった3,000名の兵と共に月山富田城を包囲。応戦する敵方はわずか300名の兵でしたが、毛利軍をなかなか落とすことができませんでした。
翌1570年(元亀元年)1月、月山富田城の救援のために毛利元就本人が15,000名の兵を引き連れ接近します。山中鹿助はここでも周辺の山中を駆け回って毛利軍を翻弄。しかし最後は捕らえられ、「尾高城」(現在の鳥取県米子市)に幽閉されてしまいました。
ところが、おとなしく捕まっているような男ではありません。赤痢にかかったふりをして何度も厠(かわや:トイレ)にこもり、見張りの隙をみて脱出しました。
まるで映画のような華麗な脱出劇です。
1577年(天正5年)に「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉)は、毛利軍から奪ったばかりの「上月城」(現在の兵庫県佐用町)を山中鹿助に与えました。しかしここは戦略的にとても重要な場所であり、毛利元就も諦めません。
翌年の1578年(天正6年)2月には毛利軍が奪回。3月、山中鹿助は「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と協力して上月城の奪回に成功しました。そして5月、毛利軍は再び上月城に対して激しい攻撃をしかけます。ところが、今回はこれまでと状況が違いました。
織田家の家臣「松永久秀」(まつながひさひで)、「別所長治」(べっしょながはる)、「荒木村重」(あらきむらしげ)らが次々と謀反を起こし、織田方の武将がその対応に追われ戦場に向かったため、上月城は孤立。その上、羽柴秀吉は織田信長に援軍を頼みますが、羽柴秀吉の軍功をねたむ家臣の讒言(ざんげん:人を貶めるための告げ口)によって派兵は却下されてしまいます。それを知った羽柴秀吉は「つまらない者どものせいで山中鹿助を見捨てることになってしまった」と大いに嘆きました。
山中鹿助は2ヵ月近く耐えましたが、7月に落城。尼子勝久は自刃(じじん:自ら命を絶つこと)し、山中鹿助は毛利軍の陣に護送される船の中で殺害されました。
主家再興のために命をかけた山中鹿助は、武士の鑑として死後に評価されました。毛利方の「吉川元長」(きっかわもとなが)が「彼は正真正銘、天下無双の武将」と評価したことをはじめ、江戸時代には「頼山陽」(らいさんよう:江戸後期の歴史家・思想家)や「勝海舟」(かつかいしゅう:江戸城無血開城を行った幕臣)も高く評価。忠義の英雄が主家再興をめざす物語は、多くの講談において題材となりました。
また山中鹿助が月に七難八苦を祈ったという逸話は、明治時代には「板垣退助」(いたがきたいすけ:明治維新の立役者)が演説で引用しただけでなく、学校の教科書にも採用されたほど有名です。
また、伝承によれば山中鹿助の孫は大阪・今橋(大阪中央区)で両替商を営んで大成功。これがのちに「日本の富の7割は大阪にあり、大阪の富の8割は今橋にあり」とまで言われた「鴻池善右衛門」(こうのいけぜんえもん)だとされます。