「藤堂高虎」(とうどうたかとら)と言えば、「徳川家康」の軍師として有名ですが、実は生涯で11人もの主君に仕えています。当時から、その変わり身の早さを快く思わない人もいました。しかし逆に言えば、これは時勢と人物の器量を見抜く力が高かったことの証です。また藤堂高虎は城づくりの名人でもあり、生涯で20余りの築城を行いました。「江戸城」(現在の東京都千代田区)や「聚楽第」(じゅらくだい:現在の京都市上京区)、「二条城」(にじょうじょう:現在の京都市中京区)、大阪城(現在の大阪市中央区)の築城にも藤堂高虎がかかわっていたとされます。そして徳川家が最も信頼する軍師のひとりとして、江戸幕府と江戸のまちづくりを支えました。
「藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、近江国(現在の滋賀県)の貧しい地侍の家に生まれ、15歳で「浅井長政」(あざいながまさ)に仕えました。と言っても、最初は足軽(軽装備で従軍した歩兵)です。これが武家の軍師との違い。浅井家では大きな活躍はできなかったものの、「阿閉義秀」(あつじよしひで)や「磯野員昌」(いそのかずまさ)など、浅井家の家臣に仕えました。そして「織田信澄」(おだのぶずみ:織田信長の甥)など、次々と主君を変えていきます。
この頃、餅屋での無銭飲食を店の主人に許してもらった藤堂高虎は、その恩を忘れないよう旗指物に3つの白い丸をあしらった「三つ餅」(みつもち)を用いました。これはのちの講談のため、事実かどうかは分かりません。しかし藤堂高虎が家紋の「蔦紋」(つたもん)の代わりに白餅をよく使っていたのは確かです。また白餅は「城持ち」も意味していると言います。
1576年(天正4年)に、「豊臣秀長」(とよとみひでなが:豊臣秀吉の弟)に召し抱えられてから運気が一変。豊臣秀吉の紀州攻め(現在の和歌山県)と四国攻めで手柄を挙げ、紀州粉川(こがわ:現在の紀の川市)の土地を拝領し1万石の大名となりました。
そして、1586年(天正14年)に豊臣秀吉は、徳川家康が居住するための屋敷を聚楽第の中に造ることになります。その工事担当を、藤堂高虎に任じました。しかし設計図面を見た藤堂高虎は、独断で設計を変更。余分に必要となった資材の費用はすべて自分で用意しました。徳川家康に屋敷を引き渡したとき、図面と形状が異なることを指摘された藤堂高虎はこう答えます。
「もし家康様に何かあれば、関白秀吉様の名誉を汚すことになります。ですから私の判断で変更しました。もしお気に召さなければ、この場で私を手討ちにして下さい」。
徳川家康はこの言葉にいたく感動し、以降、藤堂高虎という男に興味を持つようになりました。
1591年(天正19年)に豊臣秀長が亡くなると、跡継ぎの「豊臣秀保」(とよとみひでやす)に仕え、「文禄の役」(豊臣秀吉が中国侵攻をめざした1度目の戦)に参戦。帰国後、豊臣秀保が死んだために藤堂高虎は出家(しゅっけ:僧侶となること)を決意します。
しかし徳川家康が「あれほどの武士を失うのは惜しい」と強く主張。豊臣秀吉は藤堂高虎を連れ戻して自分の家臣とし、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)7万石を与えて水軍司令に大抜擢します。それだけ豊臣秀吉も藤堂高虎を高く評価していたのです。
その後、藤堂高虎は、1597年(慶長2年)の「慶長の役」(2度目の中国侵攻)に出陣。このときは蔚山城(うるさんじょう:韓国蔚山広域市)に立てこもった「加藤清正」(かとうきよまさ)を決死隊を率いて救ったり、「巨済島」(こじぇとう:韓国巨済市)で「元均」(げんきん)が率いる海軍を撃破したりと、藤堂高虎は陸と海で大活躍しました。
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康は半島各地で戦う100,000人の日本兵の撤退を決定。そして徳川家康は、撤退戦の総指揮官に藤堂高虎を任命します。豊臣秀吉の死を隠したまま、追いすがる朝鮮軍からの撤退戦は困難をきわめましたが、藤堂高虎は見事にやりとげました。この頃、すでに徳川家康は藤堂高虎に絶対の信頼を寄せていたのです。
また藤堂高虎も徳川家康を次の天下人として認めており、豊臣秀吉の家臣であった加藤清正や「福島正則」(ふくしままさのり)らに対して、「豊臣家のことを思えば、今は家康殿に従うべき」と説き、多くの武将を徳川方に引き込みました。これが、のちの人々に藤堂高虎は豊臣家を裏切ったと非難される原因になりました。
しかし主君選びを間違えたら命を失う戦国時代に、より力のある主君に仕えるのは当たり前。藤堂高虎は徳川家康の天下取りを確信し、徳川家康による天下泰平の世の中を作ろうとしていたのです。
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では、藤堂高虎の裏切り工作活動のおかげで徳川家康の東軍が勝利しました。この功績から、徳川家康は藤堂高虎を伊予国今治(現在の愛媛県今治市)20万石の大名に取り立てます。
そのお礼として、藤堂高虎は徳川家康のために近江に「膳所城」(現在の滋賀県大津市)を築城。さらに1606年(慶長11年)には、江戸城の大規模な修築を行います。
すると徳川家康は、1608年(慶長13年)には伊勢・伊賀(現在の三重県)の領地と「津城」(現在の三重県津市)、「伊賀上野城」(現在の三重県伊賀市)の10万石を加増。親藩(徳川家の一族)でも譜代(関ヶ原の戦い以前から徳川家康に仕える家臣)でもない藤堂高虎が破格の大出世を果たしたことに、当時の人々は仰天しました。
その後も徳川家康は藤堂高虎を頼り、藤堂高虎は徳川家康のために誠心誠意尽くしました。
徳川家康が豊臣家を滅ぼした1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」の前夜、徳川家康は藤堂高虎に「この戦いで負けたら、わしはそなたと伊賀上野の城で枕を並べて死ぬ覚悟だ」と言ったという話が伝わっています。
その言葉に奮起した60歳の藤堂高虎は、自ら4,000名の兵を率いて徳川軍の先鋒を務めました。その半年後、徳川家康は病に伏せます。臨終に際して、徳川家康は藤堂高虎を枕元に呼んでこう言います。
「そなたとはこれまでいつも一緒であった。しかし死んだら(宗派が違うので)別の道に行くことになるなあ」すると藤堂高虎は別室にいた「天海」(てんかい:徳川家康の側近として仕えた天台宗の僧侶)のところへ行き、その場で天台宗に改宗。再び枕元に戻り「これで来世もご奉公できます」と涙ながらに語りました。
徳川家康没後は2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)に仕え、1630年(寛永7年)に江戸の藩邸で死去。遺体を清めようとしたお付きの者が驚いたほど満身創痍の身体が、その激動の人生を物語っていました。
藤堂高虎の没後、長男「藤堂高次」(とうどうたかつぐ)が藤堂家を継ぎます。その後、子宝に恵まれない藤堂家は遠縁から養子をもらうなどして、江戸時代を生き延びました。
1868年(慶応4年/明治元年)の「戊辰戦争」では、藤堂家当主の「藤堂高猷」(とうどうたかゆき)が幕府方で参戦。しかし途中で新政府方に付いたため、周囲から「さすが藩祖(藤堂高虎のこと)の教えがよく受け継がれている」と揶揄されたという話が残っています。
また、藤堂家は現代まで続いており、お笑い芸人の「ゆってぃ」(本名:藤堂雄太[とうどうゆうた])やボートレース選手の「藤堂里香」(とうどうりか)は、藤堂高虎の末裔と言われています。