「片倉小十郎景綱」(かたくらこじゅうろうかげつな)は、「仙台藩」(現在の宮城県仙台市)初代藩主「伊達政宗」の重臣で、白石城(現在の宮城県白石市)の城主です。頭の回転が速く決断力にも優れていたため、伊達政宗のピンチを何度も救い信頼されました。伊達政宗からはもちろん、天下を取った「豊臣秀吉」や「徳川家康」からも高く評価された軍師・片倉小十郎景綱について、詳しくご紹介します。
「片倉小十郎景綱」(かたくらこじゅうろうかげつな)は、幼い頃に神職だった父と母が死去し、姉に育てられました。姉が「伊達政宗」の乳母(めのと:育ての母)となったため、片倉小十郎景綱も伊達政宗の父「伊達輝宗」(だててるむね)の従小姓となり、やがて伊達政宗の「傳役」(もりやく:養育係)に抜擢され、重臣となり活躍しました。
伊達政宗よりも10歳年上の片倉小十郎景綱は、「智の小十郎」と呼ばれたほど智に優れた人物。ときに優しく、ときに冷酷に、戦国の時代の中で生きる術を伊達政宗に厳しく教えました。
1584年(天正12年)、18歳になった伊達政宗は、父・伊達輝宗が隠居したために家督を相続。当時、伊達氏は鎌倉時代から続く有力大名、会津(現在の福島県西部)の「蘆名氏」(あしなし)と敵対していました。
伊達政宗が当主になると、伊達方の「大内定綱」(おおうちさだつな)が蘆名方に寝返るという事件が勃発。これを機会に、伊達政宗は蘆名氏を討ってしまおうと考えたのです。しかし、戦って勝てる相手ではないため、家臣は大反対。伊達政宗が迷い始めると、片倉小十郎景綱は「一度決断したあとで撤回すれば、兵を失う原因になります」と進言。伊達政宗はその言葉を信じ、蘆名攻めに踏み切りました。
1585年(天正13年)、伊達政宗の父・伊達輝宗が、蘆名氏にしたがっていた「畠山義継」(はたけやまよしつぐ)に拉致されます。救出に向かった伊達軍の鉄砲があたり、伊達輝宗も畠山義継も最期を遂げたのです。
怒りが収まらない伊達政宗は、1586年(天正14年)、8,000の兵を率いて畠山氏の居城「二本松城」(現在の福島県二本松市)に攻め込みます。
しかし、援護に駆け付けた蘆名氏と佐竹氏(常陸[ひたち:現在の茨城県]の大名)の30,000の連合軍に押し込まれ、人取橋(現在の福島県本宮市)付近で乱戦。伊達政宗は自ら槍を取って奮戦しますが、敵兵に包囲されてしまうのです。
これに気付いたのが、片倉小十郎景綱。咄嗟に「片倉ひるむな!政宗がここにおるぞ!」と叫び、自分こそが伊達政宗だと敵を欺き、自分に注目を集めました。この隙に伊達政宗は危機を脱出。ついに、1589年(天正17年)、伊達政宗は蘆名家内部の謀反にも助けられ、強敵・蘆名氏を撃破したのです。これにより、伊達氏は東北一帯を支配しました。
伊達政宗が幼い頃から、片倉小十郎景綱のことを絶対的に信頼していたとする、こんなエピソードがあります。
伊達政宗は、5歳のときに天然痘にかかって右目を失明。右目は白濁して飛び出ていたと言われています。その顔が嫌だった伊達政宗は、ある日、家来に短刀で右目を刺し潰せと命じたのです。当然、家来全員が尻込み。しかし、片倉小十郎景綱は、短刀を受け取り、伊達政宗の目に突き刺しました。あまりの痛みに伊達政宗が失神しそうになると、「武士ならば、これしきの痛みは我慢なされませ」と一喝。
主君のためにそこまでしてくれる片倉小十郎景綱だからこそ、伊達政宗は絶大な信頼を寄せたのです。ただし、この話は創作とも言われています。
到着が遅かったことで気分を悪くした豊臣秀吉は、伊達政宗との会談を拒絶。そこで片倉小十郎景綱は一計を案じました。
伊達政宗は髪を短く切りそろえて垂らし、甲冑(鎧兜)の上に白麻の陣羽織を着て、豊臣秀吉の陣に参上。これは死装束(死者に着せる衣装)を模した姿で、自分は死ぬ覚悟だというアピールです。それでも豊臣秀吉は会おうとしないどころか、一行を蔵に閉じ込めてしまいました。
しかし、これも片倉小十郎景綱の想定内。3日目に現れた使いの者に、伊達政宗は平然と尋ねます。「聞けば、小田原の陣中に千利休[茶道を完成させた大家。豊臣秀吉の軍師のひとり]殿がおられるとか。この機会に、ぜひ茶道を教えていただきたいのです」。殺されるかも知れない状況で、なんとも大胆な言葉です。これにはさすがの豊臣秀吉も驚き、伊達政宗に会ってみようという気になりました。
面会の席で、豊臣秀吉は伊達政宗の首を杖でつつきながら「もう少し遅れたら、ここが危なかったぞ」と笑ったことが伝えられています。片倉小十郎景綱のギリギリの作戦勝ちでした。
この作戦が片倉小十郎景綱の発案と知った豊臣秀吉は、1593年(文禄2年)に片倉小十郎景綱に城を与え、5万石の大名として直参(じきさん:直属の部下)になるよう命じています。しかし片倉小十郎景綱は伊達政宗に遠慮してこの申し出を固辞。
そのあとで天下を取った「徳川家康」も片倉小十郎景綱を高く評価し、1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」のあと江戸屋敷を授けようとしましたが、片倉小十郎景綱はこれも返上。
その代わりに、片倉小十郎景綱は伊達政宗から白石城(現在の宮城県白石市)を賜り、城主となりました。
なお、1615年(慶長20年)に豊臣家を滅ぼした徳川家康は、大名の軍事力を削減するため、ひとつの国に城はひとつしか置いてはならないという「一国一城令」を全国に発布します。仙台藩にはすでに伊達政宗の仙台城(現在の仙台市青葉区)がありましたが、徳川家康のはからいで片倉小十郎景綱の白石城は例外とされ、その後も存続を許されたのです。
生涯をかけて伊達政宗を守り、忠誠を尽くした片倉小十郎景綱は、1615年(元和元年)にこの世を去りました。
それから258年後の1873年(明治6年)、旧仙台藩の住民らの嘆願で、「武振彦命」(たけふるひこのみこと)を祀った「青葉神社」(仙台市青葉区)が創建されます。この武振彦命とは、藩祖・伊達政宗公のこと。そして青葉神社の宮司を代々務めてきたのが、片倉小十郎景綱の末裔です。青葉神社で今もなお、片倉小十郎景綱は伊達政宗を見守り続けているのです。
片倉小十郎景綱は、とてもこだわりの強い人物でした。例えば、片倉小十郎景綱の家紋は「ばら藤に井桁」(ばらふじにいげた)。ばらとは薔薇の花ではなく、藤の花が房状に垂れ下がって見事に咲く様子のことです。片倉小十郎景綱のオリジナルのデザインと言えます。
また、片倉小十郎景綱が戦場で被った兜「神符八日月前立筋兜」(しんぷようかづきまえだてすじかぶと)も、前立て(まえだて:兜の正面の飾り)に八日月(ようかづき:月齢8日の月)と愛宕神社の「愛宕山大権現」(あたごやまだいごんげん)のお札が飾られ、ユニークなもの。
愛宕山大権現は戦勝の神として知られており、そのお札と自分が信仰する三日月を2つとも兜に掲げて戦場での加護を祈るとは、なかなかのアイデアです。