戦国時代の建物は木材によって建てられていたため、火は大敵でした。城攻めの際も火矢などを用いるのは定番中の定番。しかし、火が直接の原因となって落城した戦例は意外に少ないのが実情です。しかし、何度も火攻めを行って攻城を成功させている人物がいます。天下布武を掲げた戦国の風雲児「織田信長」です。織田信長が火攻めによって落城させた3つの戦いに注目。火攻めが行われる背景や実行方法などとともに、それぞれの古戦場についてご紹介します。
城を攻める際の方法は、兵糧攻めや水攻め、もぐら攻め(地下を掘り進めて城内へ侵入する作戦)など様々ですが、こと火攻めに関しては、数えるほどしか行われていません。
なぜなら、残虐すぎるためです。城内を燃やし尽くしてしまうと、戦闘に参加していない女性や子どもにも被害が及びます。攻略したあとにその地を支配することを考慮すると、罪のない人々を犠牲にしたことで生じる恨みは、極力最低限に留めるのが暗黙のルールでした。言わば火攻めは、後先を考えずに皆殺しにして「無に帰す」という、最後の手段なのです。
実際、「関ヶ原の戦い」の際、火攻めを行ったことで切腹を命じられた武将がいます。「徳川家康」に味方した「斎村政広」(さいむらまさひろ)です。因幡国(現在の鳥取県東部)の鳥取城(鳥取県鳥取市)を攻めた際、城と城下町を焼き討ちにしたことを咎められ、領土没収の上、切腹。無関係の住民を巻き込むことは、死に値する罪だったのです。
火攻めは、単に火を放てば成功するわけではありません。いくつかの下準備が必要になります。まず重要なのは、火付け役。効果的に敵陣を火に包むためには、燃え広がりやすく、かつ気付かれにくいところに着火する必要があります。それには、外側からではなく内側から火を放つのが最適。つまり、内応者を事前に敵陣へ潜入させておくことが成功の条件なのです。
着火場所は、城壁などの最前線を避け、ひとけの少ない木造兵舎などを狙うのが一般的。気付いたときには手遅れの状態に仕立て上げるのが火攻めのコツなのです。
次に重要なのが、火攻めを行う時期。火はそもそも空気が乾燥していないと燃え広がりません。すなわち秋や冬、春先が狙い目。実際、世に名高い「比叡山焼き討ち」などは、秋に行われました。しかし、戦国時代の兵士は農民が中心。そのため合戦の多くは、農閑期である6月から8月、もしくは10月頃に集中しています。田植えや稲刈りの時期を避けなければ兵力が集まらなかったのです。
その点織田家は事情が異なります。1568年(永禄11年)頃に発布した「楽市楽座」(らくいちらくざ)などの影響から兵農分離が進み、1年中いつでも合戦が可能な体制が整えられていました。つまり、そもそも空気が乾燥する時期に城攻めができた勢力は、織田家くらいだったのです。
1565年(永禄8年)、織田信長は本格的な美濃国(現在の岐阜県南部)攻略に着手しました。
仇敵「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)が没したことで、離反する国人衆(地方の有力な武士)が続出したためです。織田軍が向かった先は、中濃(美濃国中部)の堂洞城(岐阜県美濃加茂市)でした。
しかし、斎藤軍が救援に向かっていることを知ると、織田信長は早期決着のため火攻めを決断。本丸を孤立させるため二の丸を執拗に攻め、その上で大量の松明を投げ込んで曲輪(くるわ)ごと燃やしたのです。
当日、風が強かったことも幸いし、火は瞬く間に燃え広がりました。本丸を死守していた「岸信周」(きしのぶちか)は最後まで頑強に抵抗を続けたものの、やがて敗北を悟り、妻や子とともに自刃。結果的に、岸一族を皆殺しにするかたちになりました。
堂洞城は現在、山肌に本丸や二の丸に土塁や堀の跡がわずかに残るのみ。本丸に立つ石碑に「南無阿弥陀佛」と刻まれていることが、当時の火攻めの凄惨さを物語っています。近隣の「富加町郷土資料館」(岐阜県加茂郡富加町)に堂洞合戦の資料が展示されており、合わせて巡るのがおすすめです。
戦国史上最も有名な火攻めの比叡山焼き討ちは、1571年(元亀2年)に起こりました。
きっかけは、当時敵対していた「浅井長政」(あざいながまさ)と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の軍勢を、比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市)がたびたび匿ったことです。
当時の比叡山延暦寺は大名並の武力と財力を有しており、京を押さえている織田信長にとっては、極めて目障りな存在。宗教勢力への攻撃は当時タブー視されていましたが、織田信長は当初から比叡山の徹底破壊を目的に計画を立てていたと言われています。
戦いは凄惨そのもので、麓から火を放つと僧兵はもちろんのこと、僧侶や住民もことごとく織田軍に討たれ、延暦寺の堂内に逃げた者達は建物ごと焼かれる始末。その数は「信長公記」によれば数千人に上ったとされています。この戦いにより比叡山の軍事力は完全に消失しましたが、宗教の聖地を燃やして殺戮を働いた行為は、織田信長の威信を失墜させることになりました。
現在の比叡山延暦寺に残るお堂は、ほとんど焼き討ちあとに再建された物です。唯一戦火を免れたのが重要文化財の「瑠璃堂」。火攻めを偲ぶ史跡としては、比叡山山頂バス停そばにある「元亀の兵乱殉難者鎮魂塚」があります。
アクセスは、坂本ケーブル延暦寺駅から徒歩約8分。山がまるごと境内になっており、お堂の数は100以上にも上るため、丸1日かけて歴史散策が楽しめます。
織田信長は「石山本願寺」(いしやまほんがんじ)と約10年にわたって戦い続けました。いわゆる「石山戦争」です。戦いの中心は摂津国(現在の大阪府北中部・兵庫県南東部)の石山本願寺(現在の大阪府大阪市)でしたが、全国にも飛び火。そのうち本願寺側最大拠点のひとつになったのが伊勢国(現在の三重県北中部)の伊勢長島城(三重県桑名市)です。「願証寺」(がんしょうじ)という本願寺派の寺院があり、一帯の門徒を束ねていました。
織田信長は1571年(元亀2年)から3年がかりで伊勢長島城を攻撃。特に1574年(天正2年)の「第三次長島侵攻」は凄惨なものになりました。そのトドメに行われた火攻めが「屋長島・中江砦の焼き討ち」です。
織田軍は全国から主将格を集めて総勢約80,000で包囲すると、兵糧攻めと力攻め(策略などを用いず、武力と兵力のみを頼りに攻める方法)を巧みに使い分けて砦を攻略。最後まで抵抗を続けた一向宗門徒を、屋長島と中江砦に追い詰めます。すると、敵が逃げないように幾重にも柵で囲み、いっせいに放火。2つの砦に立てこもった人々は逃げることもできず、次々と焼き殺されました。このとき犠牲になった人数は20,000人以上とされ、日本史上屈指の大虐殺として語り継がれています。
現在、伊勢長島城の痕跡はほとんど残っておらず、長島中部小学校(三重県桑名市)の前に案内板があるのみ。ちょうど校舎が建っているところが本丸跡でした。なお、火攻めの惨劇を今に伝える史跡を見るなら、養老鉄道下野代駅から徒歩約5分の「野志里神社」(のじりじんじゃ:三重県桑名市)へ。境内には、伊勢長島の一向一揆で戦死した人々を祀る千人塚が、ひっそりと立っています。