「天璋院」(てんしょういん)は江戸幕府第13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の正室で、「篤姫」(あつひめ)の名で知られる人物です。2008年(平成20年)に放送されたNHK大河ドラマ「篤姫」(あつひめ)の主人公で、女性層から支持を得て高視聴率を記録したことでも話題となりました。将軍の正室としては珍しく一大名家から嫁いだ篤姫は、大奥を中心に波乱万丈な人生を歩みます。幕末の動乱期に大奥で葛藤し続けた天璋院(篤姫)の人生を振り返りながら、篤姫が大名家から嫁いだ理由について見ていきます。
「天璋院」(てんしょういん)こと「篤姫」(あつひめ)は、1835年(天保6年)に薩摩国(現在の鹿児島県)の今和泉(いまいずみ:現在の鹿児島県指宿市)の領主である「島津忠剛」(しまづただたけ)の長女として誕生しました。生母は島津一門出身の「お幸」(おこう)で、幼名は「一子」(かつこ)と名付けられています。
実家の今和泉島津家は、薩摩藩島津家一門の中で最上位の家臣であり、今和泉の他に鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)下にも屋敷を持ち、13,000余石を有していました。この鹿児島城下の屋敷で、一子は生まれたと考えられています。
1850年(嘉永3年)、幕府から「将軍家に嫁がせる年頃の娘がいないか探している」という連絡が島津家に入ります。
当時の将軍後継である「徳川家定」(とくがわいえさだ)には、公家から娶った「有姫」(ありひめ:鷹司任子[たかつかさあつこ])という正室がいましたが、輿入りから7年目に疱瘡(ほうそう)で亡くなり、2人目に迎えた「寿明姫」(すめひめ:一条秀子[いちじょうひでこ])も立て続けに亡くなるという不幸が続いていました。
そこで、幕府は若く健康で世継ぎを産むことができる女性を探していたのです。ただでさえ徳川家定は病弱で器量に乏しいと言われていたため、幕府は早く跡継ぎをもうけなければと焦っていたことでしょう。
しかし、当時の薩摩藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)には、ふさわしい娘がいませんでした。そのため、島津斉彬が家老に探させたところ、今和泉島津家の一子が候補に挙がったのです。こうして、1853年(嘉永6年)に一子は従兄にあたる島津斉彬の養女となり、幕府には実子として届け出を提出し、篤姫と改名して鹿児島城へ移りました。
篤姫が縁談の準備をしていた頃、世の中では黒船来航や、第12代将軍の「徳川家慶」(とくがわいえよし)が亡くなるという混乱が続いていました。そして、徳川家定の将軍就任が決まると、島津斉彬とともに篤姫は江戸へ移り、いよいよ輿入りの話を進めるという段階へ入っていきます。
ところが、黒船の再来や外交問題が重なり、幕府と島津家の縁談は一時停滞することに。その後、1855年(安政2年)にようやく縁談が再開したものの、この年に安政の大地震が発生し、またもや縁談は延期されてしまいます。
縁談話が持ち上がってから5年が経った1856年(安政3年)7月、篤姫は公家の「近衛忠煕」(このえただひろ)の養女となり、同年11月にようやく正式に将軍である徳川家定の正室となりました。こうして、篤姫は22歳で将軍家へ嫁ぎましたが、大奥での受難の日々が待っていたのです。
大奥で慣れない日々を送るなか、1858年(安政5年)7月に将軍の徳川家定が急死し、この直後に養父の島津斉彬も亡くなってしまいます。篤姫が輿入りしてから、まだ1年9ヵ月しか経っていませんでした。
悲しみに暮れる篤姫は、24歳という若さで落飾(らくしょく:髪をそり落として仏門に入ること)して天璋院となります。
そして、1862年(文久2年)には将軍職を継いだ「徳川家茂」(とくがわいえもち)が正室を迎え、大奥に新たな波乱を巻き起こします。幕府の公武合体政策の一環で輿入りした「和宮」(かずのみや)は、「仁孝天皇」(にんこうてんのう)の皇女であり、姑である天璋院は家柄の差から和宮との関係に悩んでいたのです。
大奥であらゆる困難に直面しながらも、天璋院は薩摩藩からの帰国するようにという申し出に応じず、江戸で暮らし続けることを選びました。和宮とも徐々に親交を深め、ともに幕府の政策に反対するなど、大奥での連携を見せるようになっていきます。
そして、1867年(慶応3年)に病死した徳川家茂の跡を継いだ最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が「大政奉還」(たいせいほうかん)を行い、大奥の天璋院と和宮(当時は落飾して静寛院宮[せいかんいんのみや])は薩摩や朝廷へ徳川救済の嘆願に奔走しました。そのあと、江戸城(東京都千代田区)の開城を前に大奥から立ち退き、34歳の天璋院は幕府解体後も江戸に残る選択をしています。
明治維新後、天璋院は倒幕に関与した薩摩藩島津家には頼らず、徳川家の人間として生活を送ることに。和宮との交流も続け、徳川宗家を継いだ「徳川家達」(とくがわいえさと)の養育にも注力していました。また、大奥でともに生活していた女中や関係者の面倒も見ており、金銭面では苦労したと言われています。
1883年(明治16年)、徳川宗家の邸宅内で脳溢血のため倒れ、意識が戻らないまま、天璋院は49歳でこの世を去りました。
ところで、江戸幕府は第3代将軍「徳川家光」以降、将軍の正室には皇族か公家の娘を迎えるというのが慣習でした。では、なぜ一子こと篤姫は、大名家の出身でありながら将軍家に嫁ぐことができたのでしょうか。
実は、島津家には特殊な前例があり、第11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)の御台所(みだいどころ:将軍の正室)である「広大院」(こうだいいん)は、もともと「茂姫」(しげひめ)という薩摩藩島津家の娘だったのです。
広大院こと茂姫は3歳のとき、御三卿一橋家の長男「豊千代」(とよちよ)と婚約を結んでいました。この豊千代が、世継ぎのいなかった第10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)の養子となって将軍職を継いだため、たまたま茂姫は御台所になることができたのです。
また、島津家は五摂家(ごせっけ:摂関に任じられる公家の5家)筆頭の近衛家(このえけ)と、鎌倉時代から深い関係を築いていました。
そこで、茂姫は近衛家の養女となり、将軍家に嫁ぐのにふさわしい家柄となったことで輿入りを成立させます。篤姫も茂姫と同様の手順を踏みました。その後、茂姫は実子に恵まれませんでしたが、大勢の側室が産んだ53人の子女を自身の子として育て、大奥で絶大な権力を誇るようになっていったのです。
このように、広大院が将軍家で存在感を示し、大勢の子を養育したことが篤姫の嫁入りを実現できた理由であると言えます。また、公家から娶った娘が続けて病死したため、幕府では公家の娘を避ける傾向が強まっていたことも関係していたのでしょう。島津家に嫁探しの連絡をしてきたのも、広大院に仕えていた老女であったと言われています。
一子が篤姫と改名した由来も、広大院の本名である「於篤」(おあつ)にあやかり、第2の広大院にしたいという島津家の思いが込められていたのです。そして、その思いが通じたかのように、最終的に篤姫は大奥で愛される存在となっていました。