日本の甲冑は、時代が移り変わるなかで大鎧(おおよろい)や胴丸(どうまる)、腹巻(はらまき)に当世具足(とうせいぐそく)と様々な種類が現れました。また、甲冑の下に着る装束(しょうぞく)は鎧下(よろいした)と呼ばれますが、鎧下はときに特別な材質や形式で作られ、これらも時代に合わせて変化していきました。平安時代から鎌倉時代にかけて、日本独特の様式の甲冑が成立したことと、それに関連して生まれた服飾や習慣について解説します。
平安時代後期、上級武士達が大鎧の鎧下(よろいした)として着たのは、「水干」(すいかん)が多かったようです。
水干は脱ぎ着が簡単な動きやすい衣服であり、下級役人や庶民の日常着でした。武士達は普段着慣れていた水干をそのまま鎧下にしていたと考えられます。
平安時代後期の貴族である「平信範」(たいらののぶのり)の日記「兵範記」(ひょうはんき/へいはんき)の1156年(保元元年)7月10日の記事には、「保元の乱」(ほうげんのらん)で「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)へ味方し、開戦直前に天皇のもとへ集まった「平清盛」(たいらのきよもり)、「源義朝」(みなもとのよしとも)、「源頼政」(みなもとのよりまさ)などの武士が、水干と大鎧を着ていたとあります。
水干とほぼ同じ構造の「狩衣」(かりぎぬ)を着た上に大鎧を装備することもあったようで、軍記物語の「保元物語」(ほうげんものがたり)や「平家物語」(へいけものがたり)には、この着方をした武士が登場します。
水干に代わり、鎌倉時代以降に鎧下として普及したのが「鎧直垂」(よろいひたたれ)。
庶民や武士の日常着だった「直垂」(ひたたれ)から派生した物で、鎧下になったいきさつは水干と同様。
直垂も格式が低い服装でしたが、袖(そで)が細くて活動しやすく、戦いのときにも着られます。
「源平合戦」(げんぺいかっせん)に勝利した「源頼朝」(みなもとのよりとも)によって「鎌倉幕府」が開かれると、直垂は武士の正式な服装となり、格式が上昇。袖が大きくなるなどゆったりしたスタイルに変化します。
一方で、大鎧の下に着る直垂は袖細の形を残しながら、戦場の晴装束(はれしょうぞく)として華やかになり、経済力を高めた上級武士は錦(にしき)・綾(あや)、中国から輸入した金襴(きんらん)や緞子(どんす)など高価な生地を使って仕立てることが増加。これらは鎧直垂と呼ばれる装束となります。
大鎧を着る武士は弓を引きやすいように、弓を持つ左手のみに籠手(こて)を付ける「片籠手」(かたごて)を行いましたが、籠手をはめるとき邪魔にならないよう、水干、狩衣、鎧直垂のいずれの場合も左袖は脱いで折りたたまれました。
また、これらの衣服は袖口と袴(はかま)の裾(すそ)に括緒(くくりお)を通しており、戦うときはこれを引き絞って結ぶことで、より動きやすい格好になりました。
平家物語などの軍記物語や、「平治物語絵巻」(へいじものがたりえまき)、「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば:三の丸尚蔵館所蔵:東京都千代田区)、「春日権現験記絵」(かすがごんげんげんきえ、三の丸尚蔵館所蔵)といった絵巻物には様々な色や模様で彩られた鎧直垂が登場し、読者や鑑賞者を楽しませてくれます。
なお、平安時代や鎌倉時代の衣服が現存する例は非常にまれで、当時の物とみられる鎧直垂もありません。
それでは、大鎧とともに成立した胴丸には、どのような服装が合わせられたのでしょうか。
徒立戦用の胴丸については、大鎧よりも使用する機会や着用者の身分が幅広く、資料や絵画などをみても、様々な装束が用いられたと分かります。
衣服の上から胴丸を着ることは「上腹巻」(うわはらまき)と呼ばれ、平治物語絵巻や蒙古襲来絵詞、春日権現験記絵などには、白色または模様の付いた小袖(こそで)や直垂の上に胴丸を装備した兵士が描かれます。
一方、上級武士が護身のため、狩衣や直垂の下に胴丸を着込んだり、僧兵が法衣の内側に胴丸を付ける「下腹巻」(したはらまき)もあったり、これは平家物語などに見えます。
鎧下とあわせて頭に被る物も重要な存在。平安時代から鎌倉時代にかけての成人男性は、僧侶など一部の者を除き身分の上下を問わず、「冠」(かんむり)や「烏帽子」(えぼし)などの被り物をいつでも頭に付けるのが常識でした。
被り物をせず、髪の毛を結った髻(もとどり)を人目にさらす「露頂」(ろちょう)は恥ずべきことで、公然の場で他人の被り物を取り外すことは大変な侮辱だったのです。
この価値観は戦のときにも守られ、大鎧を着る武士はやわらかく仕立てた「揉烏帽子」(もみえぼし)をかぶってから兜(かぶと)を装備し、髻を兜の「天辺の穴」(てへんのあな)から引き出しました。
揉烏帽子の他、丈の長い「立烏帽子」(たちえぼし)や折りたたみ小さくした「折烏帽子」(おりえぼし)も用いられました。平治物語絵巻には、胴丸を着て折烏帽子をかぶる雑兵と、大鎧を着た武士が立烏帽子や折烏帽子を付けた姿の他、天辺の穴から烏帽子の先を突き出して兜をかぶった武士達が描かれます。
足を保護する履物は、鎌倉時代までは騎乗と徒立とで様子が異なりました。
騎射戦を行う上級武士は、乗馬時に「毛沓」(けぐつ)や「貫」(つらぬき)といった履物を使用。
毛沓と貫はどちらも毛皮の靴で、毛沓は長靴、貫は紐で締め上げる、くるぶしまでの短靴とそれぞれ形式が異なりますが、毛沓と貫は足全体を覆うことから多湿な気候の日本では蒸れやすく、足場の悪い地面になじみにくい問題がありました。
徒歩に向いた日本の伝統的な履物は、藁(わら)でできた物。すでに平安時代から「草鞋」(わらじ)が使われていました。他に、「草履」(ぞうり)の一種でかかとの部分を省いた「足半」(あしなか)もありました。
しかし、徒歩で戦う兵士に最も多かったのは裸足。これは裸足が当時の人々にとって最も動きやすかったからというだけでなく、歩兵の多くが普段から履物を使わず、また持てなかったほど低い身分だったという事情も大きく、草鞋や足半を履く者ですらごく一部でした。
鎧下に付属する物には、弓矢と関係が深い「ゆがけ」、脚に巻く「脛巾」(はばき)、足に履く「足袋」(たび)があります。
ゆがけは、矢を放つときに弓弦(ゆづる)が指を傷付けるのを防ぐために付ける鹿革の手袋で、現代の弓道でも必須の道具。
「歩射」(ぶしゃ:地上で弓を射ること)が多く行われる弓道では、右手の3本指または4本指のみを覆う「三つがけ」や「四つがけ」が主流です。
これに対して、騎射戦を行った当時の上級武士は、すべての指を覆う「諸がけ」(もろがけ)を使い、かつ両手にはめることも多くあったようです。これは馬の手綱でてのひらが擦り切れないようにするためでもありました。
脛巾は、膝から下の脚に巻き付ける布で別名「脚絆」(きゃはん)。遠出や旅行の際に脛やふくらはぎを保護し、むくみを防ぐ効果も期待されました。江戸時代まで広く使われるとともに、戦場でも鎧下とあわせられ、武将は臑当(すねあて)の当て布として脛巾を付け、また走り回る必要がある雑兵も脛巾を巻いて戦いに備えました。
足袋は現代でもなじみ深く、和服を着るときに保護や保温のために足に履きますが、平安時代から鎌倉時代の物は今と様子が異なりました。当時は、なめした鹿革で仕立てられた「革足袋」(かわたび)ばかり。かつ当時の武士は素足が常の装いで、絵画では上級武士でも素足に毛沓や貫を履いている描写が多く、それほど用いられませんでした。