日本の甲冑は、時代が移り変わるなかで大鎧(おおよろい)や胴丸(どうまる)、腹巻(はらまき)に当世具足(とうせいぐそく)と、様々な種類が現れました。また、甲冑を着るときは通常の衣服と異なり、特別な装束(しょうぞく)である鎧下(よろいした)が用意されることがあり、これらも時代とともに変化。当世具足が普及していく安土桃山時代から、戦乱がなくなった江戸時代にかけての甲冑の変化と、それに関連する服飾や習慣を解説します。
1467年(応仁元年)から約10年にわたり繰り広げられた「応仁の乱」(おうにんのらん)のあと、日本各地では様々な合戦や争いが多発し、約150年に及ぶ戦国時代が幕を開けます。「足軽」(あしがる)の登場と活躍が知られるように、より多くの人々が戦いに参加したことで、武具の需要も急増。刀剣においてはこの時期、「末備前」や「関」などに代表される「末古刀」(すえことう)が量産されます。
甲冑でも、制作期間の短縮やコストダウン、量産化を求める動きの他、防御力や活動性の改善を目指す形状の変化が次第に強まるのです。遺物や絵画などの資料からは、室町時代後期の16世紀前半までは、胴丸(どうまる)や腹巻(はらまき)が主要な甲冑として使われていたことがうかがえます。険しい山や丘に築かれた城を拠点に集団的な戦いが行われた当時は、大将から足軽にいたるまで、徒歩に適した甲冑の胴丸や腹巻を好んで使用しました。騎射戦に合わせて発達した大鎧(おおよろい)は使われなくなり、江戸時代中期以降に復古調の甲冑が登場するまで姿を消すことになるのです。
戦いが激化すると、主流の甲冑である胴丸や腹巻も、伝統的な手法に代わる新しい作り方が考案されます。多くの人々に甲冑を供給するため、「毛引威」(けびきおどし)や「本小札」(ほんこざね)のような時間と費用のかかる制作技法に代わり、量産に向いた「素懸威」(すがけおどし)や「板物」(いたもの)で仕立てるやり方が広まるのです。
さらに、1543年(天文12年)の「鉄砲伝来」で日本に伝わった「火縄銃」(ひなわじゅう)も甲冑の変化を後押しすることとなり、これらの流れは安土桃山時代に、当世具足(とうせいぐそく)の登場と完成につながっていきます。
戦国時代、日常生活と戦の距離が近くなったことで、人々の暮らしはとっさの事態にも対応しやすいように変化。
衣服の面では、身分が高い人々も、動きやすい格好を選ぶようになります。室町時代半ばまでの武家の衣服は、直垂(ひたたれ)のように上着と袴(はかま)からなる装束が基本でしたが、着用に手間がかかることもあり、戦国時代にはすたれてしまいます。代わりに、それまで下着として扱われていた小袖(こそで)が表に出ることが増え、小袖は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて意匠や染織技法が発展。現在の着物の原型となったのです。
戦闘時に甲冑の下に着る鎧下(よろいした)についても、日常の衣服と同じように簡素化が進行。直垂と同じ構造の鎧直垂(よろいひたたれ)は着るのに時間がかかるため、急な戦いが多発する戦国時代に合わなくなります。
加えて接近戦が激しくなり、敵の攻撃を防ぐために「籠手」(こて)や「臑当」(すねあて)などの「小具足」(こぐそく)を付けて甲冑の隙間を覆う、完全防御を好む考えが高まりますが、小具足が増えるほど、鎧下の生地と小具足の布地(家地[いえじ]とも)とは重なり合い、動きにくくなる原因にもなります。
鎧直垂は、普通の直垂より使用する布地は少ないものの、やはり小袖にはかないません。結局、鎧直垂は戦国時代には着用手順が複雑で鈍重な装束になり、大鎧と同様にいったん消えてしまうのです。
新たに安土桃山時代から鎧下として流行するのは、小袖をもとにした「具足下着」(ぐそくしたぎ、鎧下着とも)。日常の場で小袖が主な服飾になったこととも連動し、生地が少ない活動的な仕立てが当世具足との相性も良かったので普及したと言えます。具足下着も、武士が自分好みに仕立てることが多く、様々な意匠が現れました。
具足下着は通常の小袖より丈がやや短く、着崩れないようにしっかり締める腰紐が付くのが一般的。安土桃山時代の南蛮貿易で伝わったヨーロッパの衣服からも影響を受けたのか、立襟を縫い付け、胸元にボタンを加えた物も多くあります。
袖は、籠手を装備しやすくするため、丈を短くし、袖口が狭い「筒袖」(つつそで)や「もじり袖」がよく見られ、または袖なしタイプも作られました。下に穿く袴も動きやすい物が選ばれ、膝下までの丈しかない小袴(こばかま)や、脚絆(きゃはん)と一体化した「裁付袴」(たっつけばかま)がもっぱら用いられました。
17世紀前半、江戸幕府の政治が安定して日本から戦いがなくなると、武器の発展は停滞。
これ以降、当世具足や具足下着は定型化し、構造に大きな変化は起こらなくなりますが、材質や意匠に工夫が凝らされ、細かなバリエーションは無数に増えます。
将軍や大名など上級武士が用いた具足下着には、高級な布地を用いて仕立て、夏は通気性が良い帷子(かたびら:裏地がない麻布の衣)を、冬は防寒用に表地と裏地の間に綿を入れた物をそれぞれ用意するなど、複雑になる例が目立ちます。
これに対して、最前線での戦いや戦場での下働きを担った足軽達は、主君から貸し出される簡素な「御貸具足」(おかしぐそく)をまとい、その下には丈夫な生地の具足下着とズボン形の「股引」(ももひき)を着け、激しい動きに備えたのです。
具足下着の古い例を挙げると、「徳川家康」が家臣の「稲垣長茂」(いながきながしげ)へ与えたと伝わる「白地葵紋桐模様辻が花染鎧下着」(しろじあおいもんきりもようつじがはなぞめしたぎ)は、安土桃山時代に流行した絞り染め技法の「辻が花染」(つじがはなぞめ)で、三つ葉葵紋や桐文様を表した華麗な1着。
さらに、徳川家康からその十一男で水戸藩初代藩主「徳川頼房」(とくがわよりふさ)へ与えられた遺品にも具足下着があります。これは袖部分が曲線裁ちされ、当時のヨーロッパの衣服を多く参考にして仕立てたことがうかがえるのです。
具足下着は、甲冑を着用すると大部分が隠れてしまい、色や模様、形が分かりにくくなるため、あまり認知度は高くありません。
これに対して「陣羽織」(じんばおり)は甲冑の上から着用するためよく目立ち、戦国時代以降の武士のアイテムとして大変有名です。
陣羽織の原型は、室町時代から着られるようになった「胴服」(どうぶく)または、「十徳」(じっとく)にあるとされます。胴服や十徳は、当時の公家や武士が、室内でくつろぐときや外出の際、小袖の上に重ねて着た上着。それらは、使用する人の階級や経済力に応じて、多様な布地と意匠で仕立てられ、江戸時代には「羽織」(はおり)へと発展します。
胴服は、ほこり除け、防雨や保温の面で重宝し、平時だけでなく戦時にも使われます。武士達は敵味方が入り乱れる戦場で自己の存在を主張するため、さらに注目されやすい形や色遣いとなるよう工夫を凝らした胴服を作らせ、これらが陣羽織として確立しました。このように、陣羽織は安土桃山時代以降に軍装として定着し、「変わり兜」(かわりかぶと)や「指物」(さしもの)などとともに、近世を代表する武具となるのです。
陣羽織は、腕を動かしやすいように袖のない形が多く、生地は主に舶来の織物である羅紗(らしゃ)が一般的。そのなかでも、猩々緋(しょうじょうひ)と呼ばれた鮮やかな赤色に染められた物が高い人気を集めました。それ以外には、人目を引いたり威厳を演出するために錦(にしき)や金襴(きんらん)、緞子(どんす)といった高級織物、羽毛や毛皮を植えたり、図柄をあしらったりした物があります。
有名な陣羽織としては、「織田信長」(おだのぶなが)所用の重要文化財「揚羽蝶紋黒鳥毛陣羽織」(あげはちょうもんくろとりげじんばおり)、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)所用の「鳥獣文様綴織陣羽織」(ちょうじゅうもんようつづれおりじんばおり)などがあります。
江戸幕府は1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼし、日本国内の政治は徳川将軍を頂点とする体制が完成。そののち、1637年(寛永14年)に発生した「島原の乱」をきっかけに、外国との交流を厳しく制限する「鎖国」政策も開始。以後、大規模な戦乱は幕末まで起こらず、約230年の「平和」が訪れます。
戦乱の終息と一国一城令をはじめとする軍備の制限、鎖国により外国からの技術導入が滞ることで、兵器の革新はほとんど止まります。支配層である武士は、有事のために武芸を修め、武器を維持管理することが求められましたが、次第に実戦から遠ざかります。
その結果、刀剣は18世紀後半まで新刀(しんとう)の時期が続き、甲冑も同じく当世具足が作られ続けます。一部の藩では、一定のスタイルや意匠を備えた「御家流」(おいえりゅう)の甲冑が登場しますが、あくまで当世具足の中に収まるもの。鎧下である具足下着や甲冑の上に羽織る陣羽織も、布地や装飾などの表面的な部分では多くの種類が作られますが、やはり基本構造は変わりませんでした。
そんななか、昔の武家の儀式や慣わしなどを研究する武家故実(ぶけこじつ)が盛んになる江戸時代中期から、かつて中世に使われていた武器や武具の調査が進みます。これらの動きは、特に江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の時期から高まり、調査にとどまらず実際に制作する例も出ます。大鎧や胴丸、腹巻といった中世の甲冑を模作、復元した復古調甲冑です。
復古調甲冑にふさわしい鎧下の研究もなされ、具足下着に押されてほとんど忘れ去られていた鎧直垂にも再び注目が集まり、一緒に再現が試みられます。調査が進むと、「集古十種」(しゅうこじっしゅ)に実物の鎧直垂を写し取った図や寸法が掲載されるなどしたこともあり、復古調の鎧直垂が大名家などで多く仕立てられるのです。
ただし、江戸時代後期も甲冑の主流は当世具足。それに合う鎧下である具足下着も引き続き使われました。
19世紀後半に江戸幕府の支配は、政治の行き詰まりと欧米諸国からの圧力により不安定化。幕府や一部の藩は、欧米諸国と日本との軍事技術の格差に衝撃を受け、軍制の西洋化を目指しますが、スムーズには進みませんでした。また、武家故実の研究が発展したことから、古式に従った武家のあり方にこだわろうとする考えの武士も少なくなく、実際は火縄銃や刀剣、甲冑など伝統的な武器の生産も並行していたのです。
1860年代には尊王攘夷運動や討幕運動が激しくなり、江戸幕府による平和は終わります。大政奉還、王政復古で発足した明治新政府と、旧幕府とが激突した「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では、両方が当時最新の西洋兵器を用いました。
強力な火器の前に甲冑は無力であることが分かり、兵士の多くは洋風も取り入れた軽装で戦いますが、その中にあって一部の大将や指揮官は、自分の地位を示すために陣羽織または復古調の鎧直垂を着用することがありました。また、鎧直垂の上に陣羽織を羽織るという着方もあったのです。
明治維新で近代化が進んで武士の時代が終わり、甲冑と鎧下は完全に過去の存在に。甲冑や鎧下、陣羽織は古美術品として売買されたり、歴史的資料として扱われたりするようになりますが、服飾は甲冑より傷みやすく、かつ華やかな表着の陣羽織と比べて、具足下着は顧みられることが少なかったため、現存数が多くありません。
現在、江戸時代までに制作された鎧下の一部は文化財として博物館に収蔵され、展示で観られる他、古美術店で販売されることも。また、祭りなどのイベントやドラマ用衣装として、新しい鎧下も作られ使用されています。