奇襲とは、想定外の時間や場所、また手段によって敵の虚を突く作戦のこと。それは往々にして少数対多数の戦や、絶体絶命の状況に追い込まれているときに、決行されることが多いとされています。なかでも「日本三大奇襲」(日本三大夜戦)に選ばれている「河越城の戦い」、「厳島の戦い」、「桶狭間の戦い」は、奇想天外な作戦で勝敗が決しているのです。日本三大奇襲(日本三大夜戦)についてご紹介します。
河越城の戦いは、1546年(天文15年)に起きた戦いです。現在の埼玉県川越市にあった「河越城/川越城」周辺には、鎌倉街道と入間川があり水陸の交通要衝として機能していました。そのため、物資や情報なども収集しやすく、政治においてとても重要な拠点であると考えられていたのです。
そんな河越城はもともと扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の居城でしたが、勢力を拡大しつつあった北条氏に奪われます。扇谷上杉家は河越城を奪還するため、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)と古河公方(こがくぼう:室町幕府が東国支配のために置いた長官)を務める「足利晴氏」(あしかがはるうじ)と手を組みました。
1545年(天文14年)9月に扇谷上杉家連合軍は、80,000の兵を河越城に布陣。対する河越城を任された「北条綱成」(ほうじょうつなしげ)の兵はたった3,000でした。数の上で圧倒的に差があったため、北条綱成は野戦では勝てないと判断し籠城を選択。北条綱成らが籠城している間、「北条氏康」(ほうじょううじやす:[北条早雲]の孫)が援軍を連れて来ては逃げ去るといったことを繰り返していました。けれどこれも作戦のうちであり、「北条軍は弱い上に臆病者」だと扇谷上杉家連合軍に思い込ませるためだったのです。
扇谷上杉家連合軍が油断した頃を狙った、半年後の1546年(天文15年)4月20日深夜に北条氏康は奇襲作戦を決行。北条氏康は兵達に甲冑(鎧兜)を脱ぐよう指示し、扇谷上杉家連合軍の陣地へ突入させます。予期しない敵襲と、臆病だと思っていた北条氏康軍の軽快な動きに戦場は大混乱に陥り、扇谷上杉家連合軍は蜘蛛の子を散らすように逃げていきました。そうしている間に河越城からは、北条綱成軍が飛び出して来て、残った扇谷上杉家連合軍を一網打尽にします。
絶対的不利な状況をものともせず、意図的な退却を繰り返し、油断を誘う作戦が北条軍を勝利に導きました。扇谷上杉家連合軍や山内上杉家、足利晴氏といった旧勢力を討ち破ったことで、関東の覇権は北条氏へと移ることになります。また北条氏康はのちに知将と称えられる人物。日本三大奇襲(日本三大夜戦)に数えられる河越城の戦いでは、その片鱗を覗かせているのではないでしょうか。
厳島の戦いは1555年(天文24年)に、「毛利元就」(もうりもとなり)と「陶晴賢」(すえはるかた)の両軍が争った戦です。当時の中国地方は、大内氏と尼子氏といった二大巨頭が覇権を争っている時代でした。陶晴賢は主筋の「大内義隆」(おおうちよしたか)を暗殺すると大内氏の実権を握ります。同じく大内氏の配下だった毛利元就は仇を取るため戦いを挑むのです。
しかし陶軍は20,000、毛利軍は4,000と兵力の差は明らか。まともに戦ってはすぐに負けてしまいます。そこで平坦な場所が少なくて大軍では身動きの取りにくい厳島(広島県廿日市市)に、陶軍を誘い込む作戦を立てると、すぐさま厳島を占拠。そして毛利元就は、重臣を裏切ったと見せかけて陶軍に内通させることや、「厳島に攻め込まれたら勝てない」など嘘の情報を流します。
他にも毛利元就は、謀略を用いて尼子氏を滅ぼして後顧の憂いを断ち切りました。さらに毛利元就は、現在の広島県と愛媛県の海上にまたがる「因島」、「能島」、「来島」を拠点とする「村上水軍」を勢力に引き入れ、三男「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)に指揮を任せます。
1555年(天文24年)の9月末、ついに陶軍は大軍を率いて厳島に上陸。毛利軍は夜陰に乗じて陶軍の裏手にある山に潜みました。そして翌10月1日未明に山を駆け下り、陶軍の本陣を奇襲。陶軍の20,000もの軍勢は、狭い島の中では統制が取れず狼狽するばかりでした。兵達は海に逃げ込みますが、小早川隆景軍と村上水軍が待ち構えて撃破してしまいます。陶晴賢も敗走中、厳島の西側にある大江浦で自害しました。
多勢に無勢のなか着々と戦支度を進める毛利元就、内通の偽装工作や流言など思い切った作戦が功を奏します。日本三大奇襲(日本三大夜戦)にふさわしい手際鮮やかな合戦は、のちに中国地方統一を果たす毛利元就の記念すべき第一歩と言えるでしょう。
桶狭間の戦いは、1560年(永禄3年)5月に尾張国(現在の愛知県西部)の「織田信長」と、駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の「今川義元」(いまがわよしもと)との間で行われた戦いです。今川義元は、駿河国を束ねる以外にも2ヵ国と尾張国の一部をすでに支配下に置いている状態であり、その兵力は25,000。対する織田信長は、たった4,000の兵を揃えるのがやっとでした。
同年5月12日に、今川軍は25,000の兵を率いて駿河国から進軍を開始、5月18日に尾張国境に布陣。その夜、この一報を聞いた織田信長は、居城「清洲城」(現在の愛知県清須市)で軍議を開いているところでした。家臣達が「籠城するか」、「出撃するか」で意見が分かれていたのですが、内通者を疑っていた織田信長は何も決断せずに就寝してしまいます。
ところが5月19日の午前3時頃、織田信長は5人の少ない手勢を連れて人知れず清洲城を出陣。同時刻、今川軍は織田軍の築いた付城(つけじろ:国境などに築く砦のこと)「丸根砦」と「鷲津砦」への攻撃を開始しました。このとき織田信長は丸根砦と鷲津砦を救援に向かったとも、数の上では勝てないので今川義元のいる本陣を狙ったとも言われています。
しかし丸根砦と鷲津砦は織田信長の到着前に落城。そこで織田信長は、近くの「丹下砦」に入り全軍が到着するのを待ちました。全軍が揃った織田軍は、丹下砦を出て進軍を開始。すると織田信長に、今川義元のいる今川本隊が桶狭間山(現在の愛知県名古屋市緑区)で休息を取っていると、内通者より知らせが入りました。しかも幸運なことに風雨が吹き荒れはじめ、今川軍に気付かれずに進軍するにはうってつけの好機に。織田軍は兵4,000のうち、半分の2,000を率いて桶狭間山の今川軍陣地裏手に回り込みます。
そして風雨が小康状態になったところで、今川軍を急襲。織田信長は「かかれ皆の者、狙うは義元の首のみぞ」と声を挙げたとされています。奇襲に驚いた今川軍は散り散りに逃げ出しました。そして織田軍の砦を落とし油断しきっていた今川義元は、織田家家臣「毛利新介」(もうりしんすけ)に討ち取られます。
「海道一の弓取り」とまで言われた戦国大名・今川義元は敗北し、尾張一国しか持たなかった織田信長は全国にその名を轟かせました。こうして織田信長は、日本三大奇襲(日本三大夜戦)に数えられる桶狭間の戦いを皮切りに、天下統一への道を突き進んで行きます。