「戦国時代」や「戦国武将」という言葉から、あなたはどんなファッションを連想しますか? おそらく多くの人にとってそれは、歴史に名を残す武将達の個性が色濃く反映された甲冑(鎧兜)姿ではないでしょうか。そんな甲冑(鎧兜)の成り立ちや変遷をたどりながら、その魅力や込められた思いに迫っていきましょう。 甲冑(鎧兜)とは、頭部を守るための「兜」と胴体を守るための「鎧」などで構成される防具一式を指します。古くは弥生時代から存在したという日本の甲冑(鎧兜)は、時代とともに少しずつ機動力や防御力を向上させながら、同時に武将がそれぞれの個性を競い合うファッションアイテムとしても進化を続けました。特に戦国時代のような下克上の世においては、ひとたび甲冑(鎧兜)を着て出陣すればそれが死装束となる可能性も高かったため、甲冑(鎧兜)は武将達にとって常に本当の意味で「勝負服」だったわけです。
甲冑(鎧兜)の歴史は、弥生時代の前期後半から中期中葉頃(紀元前500~200年頃)にまで遡ります。
初期の物としては木製の短甲(たんこう、胴体を守る短い鎧)などが遺跡から発掘されており、弥生末期から古墳時代初期(紀元後200年頃)になると金属製の短甲も作られるようになりました。
この時代にはすでに腰回りに装着する草摺(くさずり)や肩から二の腕にかけての部分を守る袖(そで)、手先を守る籠手(こて)なども考案・実用化されており、戦国時代に実用された甲冑(鎧兜)の基本的な装備はほぼ出揃っていたと言えるでしょう。
古墳時代には、短甲の他に挂甲(けいこう)と呼ばれる鎧もありました。こちらは首長など身分の高い指導者が主に着用していた物で、短甲よりも身体を動かしやすく、奈良時代には高級武人が好んで使用していたと言われています。
平安時代中期に編纂された法令集「延喜式」(えんぎしき)によると、短甲と挂甲は奈良時代から平安時代の初期(紀元後800年頃)まで使われていたようです。
短甲や挂甲はその後も改良を重ねながら進化し続け、平安時代末期には「大鎧」(おおよろい)や「胴丸」(どうまる)といった形に変わりました。
大鎧は、騎馬戦が主流だったこの時代に対応すべく成立した甲冑(鎧兜)で、弓の使用や矢による攻撃の防御に適した仕様が特徴です。馬にまたがったときに腰回りの前後左右がすっぽり覆われる四間草摺(しけんくさずり)をはじめ、肩と二の腕を守る大袖(おおそで)など、構成パーツがすべて平面的で矢の攻撃を防ぐ盾のような形に作られています。
側面には顔面を防御する吹返(ふきかえし)があしらわれ、大きな立物(たてもの)を付けた兜もこの時代から急速に増えました。端午の節句で飾られる鎧兜はこの時代の大鎧をモチーフにした物が多いので、甲冑(鎧兜)と言えば大鎧のようなビジュアルを連想する人が少なくないのではないでしょうか。
ただ、大鎧は馬上での着用を前提としているためかなりの重量があり徒歩戦にはまるで向かなかったため、戦のスタイルの変化とともに実用されることが減っていきました。胴丸はもともと雑兵が身に着けるために考案された簡素な甲冑(鎧兜)でしたが、南北朝時代に騎馬戦よりも徒歩戦が多くなってきたことから上級武士も着用するようになり、それに伴って改良が重ねられるようになりました。
大鎧の草摺が4枚だったのに対して、胴丸の草摺は8枚で構成されていることからも、徒歩戦での動きやすさを重視していることが分かります。胴丸という名の通り、胴体部分はぐるりと胴を囲む形になっており、右側の脇あたりで緒を結んで引き合わせる構造です。胴丸は15世紀末から始まった戦国時代の初期まで多くの戦で実用されていました。
胴丸と同様、雑兵用の甲冑(鎧兜)から改良を重ね、南北朝~室町時代に甲冑(鎧兜)の主流となった「腹巻」(はらまき)は、ぱっと見たところ胴丸とほとんど違いがないような印象を受けます。構造上の違いとして一番大きいのは、引き合わせ(緒で継ぎ目を結ぶところ)の位置。
胴丸が胴の右側なのに対して、腹巻は背中に引き合わせが用意されています。雑兵用ということで、胴丸も腹巻も当初は兜や袖が付属しなかったのですが、上級武士が使うようになって以降、膝甲(はいだて)や脛当(すねあて)が追加され、本格的に徒歩戦で実用されるようになりました。
室町時代末期から安土桃山時代にかけて主流となった甲冑(鎧兜)が「当世具足」(とうせいぐそく)です。「当世」は文字通り「現代の」、「具足」は「すべて足りている」という意味。
つまり、戦において必要な防具を完備した、新時代の甲冑(鎧兜)がこの当世具足というわけです。この時代の主力武器だった槍や鉄砲から身を守るため、身体の隅々にまで小さな防具があてがわれています。防具が小さくなり、革や紙、木などの新素材を適所に取り入れたことで機動性が格段に向上しました。
特に画期的だったのが、胴の部分に使われた「板札」(いたざね)です。それまでは「小札」(こざね)と呼ばれる革製の小さな板を1枚ずつ糸で綴じていた物を、鉄製の大きな板を貼り付ける仕様に替えたことで、鉄砲に対する防御力がアップ。大量生産も可能になり、一気に普及することとなりました。
加えてデザイン性の幅がグンと広がり、名将達がこぞって自身の個性を見せ付ける当世具足を作りました。パーツとして、持ち主の個性が最もよく反映されているのが兜です。奇抜な立物をあしらった「変わり兜」と呼ばれる兜が次々と登場し、なかには実戦での機能性を度外視したデザイン優先の物も多く見られます。
兜とともに、顔面を守るための「面頰」(めんぽお)と呼ばれる防具もこの時期に様々な種類が考案されました。あごの部分だけを覆う半頰(はんぼお)、目の下からあごまでを覆う「目の下頰」(めのしたぼお)、顔全体を覆う「総面」(そうめん)などがあり、特に総面はその見た目のインパクトから当時の南蛮人からも恐れられたそうです。
変わり兜については次のコンテンツでさらに詳しく触れていきます。
南蛮貿易によって、マントや襦袢(じゅばん)、帽子など、西洋の様々なファッションアイテムが日本に入ってくるようになりました。そしてその影響は、甲冑(鎧兜)など戦の世界にまで及ぶことになります。
南蛮具足(なんばんぐそく)は、西洋の鋼鉄製の鎧を日本風に作り変えた物で、輸入された鎧に草摺や袖を加えるなどのアレンジが施されています。鋼鉄製だけに鉄砲の攻撃に強く、その見た目のインパクトから戦場でも一際目を引いたと言われています。
よく知られるところでは、徳川家康が自分のために作らせた「徳川家康所用南蛮具足」(とくがわいえやすしょようなんばんぐそく)などが現在も残っていますが、鋼鉄製のためかなりの重量があることと、コスト的にかなり高価だったことから、広くは普及しませんでした。
この南蛮具足も含め、戦国武将達が愛用した武具には「どうしてこんなに奇抜なデザインなのか?」と目を疑う物が少なくありません。しかしそこには戦場で目立つことによって自らを奮い立たせ、恥ずかしい死に方はしないと覚悟を決めた男の矜持が見て取れます。そういった意味合いからしても、甲冑(鎧兜)は戦国武将にとっての晴れ着だったことは間違いありません。