戦国武将にとって、一番の晴れ舞台は戦場でした。戦国時代末期以降に主流となった当世具足(とうせいぐそく)と呼ばれる新時代の甲冑(鎧兜)は、堅牢かつ機能的に全身を守ることができ、デザイン性においてもそれまでの甲冑(鎧兜)よりも個人の趣味嗜好が反映された物が多く見られるようになりました。とりわけ兜は個性がよく表れるアイテムで、戦場でも異彩を放っていたに違いない多種多様な変わり兜が登場します。ここで扱う陣羽織(じんばおり)は、いわば戦場で身に着けるアウターです。当世具足の上から羽織る物で、具足羽織(ぐそくばおり)、陣胴服(じんどうぶく)とも呼ばれています。防寒や防雨、防風といった目的だけでなく、自らの存在を戦場でアピールする晴れ着として、当世具足や変わり兜と同じように競って華やかで目立つデザインが取り入れられるようになりました。それでは陣羽織の形状や素材の特徴について触れながら、武将達の人柄やセンスまでを映し出す個性豊かな陣羽織をいくつかご紹介していきましょう。
ただ華やかで目立つだけではなく、従来の服飾観やトレンドにとらわれない発想が多く盛り込まれている点が、陣羽織の面白いところです。
形状にこれといったフォーマットがあるわけではなく、袖がある物・ない物、丈が長めの物・短めの物など、実に多種多様な形が見られます。
シルエット的にもルーズな物からタイトな物まで、様々な陣羽織が確認されています。生地には外来染織品が好んで用いられた他、粉末状にした金をゼラチンで溶かして塗った金泥塗(きんでいぬり)の牛革や、珍しいところでは動物の毛皮、鳥の羽なども取り入れられました。そして、南蛮貿易によって日本に伝来して以降、多くの戦国武将に好まれたのが、ヨーロッパ産の厚地毛織物である羅紗(らしゃ)です。
ポルトガル語の raxa(ラサ)に由来し、丈夫で保温性が高いことから明治維新前後の軍服にも使われていました。陣羽織では、緋色(スカーレット)や黄色など、ビビッドな色を使ったコントラスト豊かな物が多く見られます。
安土桃山時代の武将に人気があったのが、緋羅紗(ひらしゃ)を生地に使った陣羽織です。緋羅紗とは、猩々緋(しょうじょうひ)という、やや紫がかった緋色に染められた羅紗で、その発色の良さから多くの武将の陣羽織として採用されています。
特によく知られているのが、小早川秀秋の所用となる「緋羅紗地違鎌模様陣羽織」(ひらしゃじちがいかまもようじんばおり)です。背中に大きくあしらわれた鎌の文様は、彼が本陣の旗印としても使っていた物。農業用の器具である鎌には、五穀豊穣への願いが込められています。
豊臣秀吉所用の「木瓜桐文緋羅紗陣羽織」(もっこうきりもんひらしゃじんばおり)も、いかにも豊臣秀吉らしい派手な意匠です。織田信長から拝領したと伝えられる羅紗で仕立てられたこの陣羽織は、背中に織田家の家紋である五つ木瓜(いつつもっこう)が大きく配され、裾には豊臣家の家紋である五七桐(ごしちのきり)が複数個散りばめられています。
同じく豊臣秀吉の所用となる羅紗陣羽織では、「富士御神火文黒黄羅紗陣羽織」(ふじごじんかもんくろきらしゃじんばおり)もあります。黒羅紗に黄羅紗で噴火する富士山を描いた物で、黒と黄のコントラストが強く印象に残ります。富士山は「不尽=尽きることがない」、あるいは「不死=永遠の命の象徴」として、当時好んで使われたモチーフです。
他にも豊臣秀吉所用の陣羽織としては、ペルシャ・カシャーン地方で製織されたタペストリーで仕立てられた「鳥獣文様綴織陣羽織」(ちょうじゅうもんようつづれおりじんばおり)や、白木綿のキルティングにイスラムの宗教的な文様があしらわれた「華文刺縫陣羽織」(かもんさしぬいじんばおり)などが残されています。いずれも新しいもの好きで、派手な色やデザインを好んだと言われる彼のセンスがうかがえる個性的な陣羽織です。
黒を基調としたシンプルなデザインの陣羽織では、加藤正方(かとうまさかた)所用の「蛇目紋黒羅紗陣羽織」(じゃのめもんくろらしゃじんばおり)が目を引きます。加藤清正の精鋭家臣「加藤十六将」のひとりである加藤正方が加藤清正から拝領したと伝えられるこの陣羽織には、加藤家の蛇目の家紋が裾に配されています。
南蛮文化の影響が色濃く、とりわけ強烈なインパクトを残すのが伊達政宗所用の「黒羅紗地裾緋羅紗金銀モール陣羽織」(くろらしゃじすそひらしゃきんぎんもーるじんばおり)です。
袖なし・丸襟のシルエットからして、どこかポルトガル伝来のマントをイメージさせますが(襟には南蛮服飾によく見られる「ひだ飾り」が付けられていた跡も確認されています)、この陣羽織の特徴は何と言ってもその製法にあります。
裾にある緋色の山形の文様は、単純に黒羅紗の上から緋羅紗を縫い付けた物ではなく、寸分違わぬ山形文様に切断された黒羅紗と緋羅紗の切断面を、縫い目の見えない特殊な手法で巧みに縫い合わせられているのです。
縦にストライプ状に縫い付けられた金銀のモールもまた、アクセントになっています。三日月をかたどった兜の前立など、自身の見せ方に長けていた伊達政宗らしい、実に先進的な陣羽織と言って良いでしょう。
そもそも、なぜ陣羽織は華やかで目立つデザインである必要があったのでしょうか。陣羽織が「戦場で個性をアピールする晴れ着」であったことは冒頭に述べましたが、「晴れ着」である理由は大きく3つあると言われています。
第1に、自分の戦場での活躍を自分よりも位が上の武将に見せることで、記憶に残るようにするため。派手な陣羽織は先に触れた豊臣秀吉や伊達政宗など、いわゆるカリスマ武将のみに許された特権的な衣装というイメージがありますが、安土桃山時代前後になると武将は個人でそれぞれに比較的自由な格好で戦に臨んでいたそうです。ですから、自分をアピールしたい中間管理職的なポジションにある武将にとっては、戦場こそが最大の「見せ場」だったことは想像に難くありません。
第2に、自分の士気を高めるため。派手な陣羽織を身に着け、戦場で目立つことによって、当然敵からは狙われる可能性が高くなります。しかしそれによって全力を尽くして戦う決心をし、恥ずかしくない生き様を見せてやろうという気概が生まれるわけです。
第3に、死装束になる可能性があったため。生死をかけた合戦では、武将は死を覚悟しなければなりません。そのため、そのとき身に着けている兜や甲冑(鎧兜)、陣羽織が死装束となっても恥ずかしくないよう、常に自分にとって最高のコーディネイトで戦場に臨む必要があったのです。
長い戦乱の時代を経て、織田信長と豊臣秀吉が政権を握り、天下統一が進められた安土桃山時代。その期間を室町幕府が滅びた1573年から徳川家康が征夷大将軍に就任した1603年までと考えるなら、わずか30年ということになります。
そこで起きた様々な出来事とそれぞれの密度の高さを思えば、陣羽織をはじめとした新しい服飾の登場と発展など、ほんの些細なことに思えるかもしれません。しかし、あらゆる価値観が転じ、従来の慣習にとらわれない社会が成立していくその過程を端的に示す事例として、当時のファッションに目を向けることの意味は決して少なくないのです。
陣羽織は、歴史に名を残す武将達だけの物ではありません。多くの武将が素材やデザインにこだわった個性的な陣羽織を着て、戦場に赴いたのです。ここではその一部をご紹介します。
「丸に横三つ引両紋勝虫図麻陣羽織」は、涼しげな麻の素材を使用し、裏地を付けない夏用の陣羽織です。丸三つ両紋が染め抜きされ、空を舞うとんぼが手書きで描かれています。とんぼは「勝虫」とも呼ばれ、武将達が日本刀の鍔や甲冑(鎧兜)に好んで使用した縁起の良いモチーフです。
表裏両面に模様が織り込まれた「隅立四つ目紋絹陣羽織」は、数ある陣羽織の中でも非常に珍しい両面仕立て(リバーシブル)となっています。高級な絹地を使用し、隅立四つ目紋を両面に縫い付け、襟には贅沢に金襴(きんらん)を施した高級感のある陣羽織です。
漆黒の羅紗に白の家紋が縫い付けられた色のコントラストが目を引く「下り藤紋陣羽織」。裏の縁は菖蒲革(菖蒲の花や葉を白く染め抜いた鹿の鞣革)で包まれており、肩には金塗り鎖の肩章が付いたシンプルながら細部にこだわりが感じられる陣羽織です。
「浮線蝶紋陣羽織」は、朱の浮線蝶紋(ふせんちょうもん)を黒の呉呂服連地(ごろふくれんじ)に縫い付けた陣羽織です。呉呂服連は荒い毛織物で、羅紗と比べると肌触りが少しざらつきます。羅紗と同じく南蛮貿易により日本にもたらされました。
「龍刺繍黒羅紗陣羽織」は、迫力のある大きな龍の刺繍を施した非常にデザイン性の高い陣羽織です。黒と白の羅紗を切り替え、龍の目には玉眼(水晶を薄く削ったもの)が嵌められています。折り返しには鮮やかな錦織を用い、麻の裏地には金で様々な文様が描かれています。これほど高級な仕立ての陣羽織はとても珍しく、高位な侍が着用していたと推察できます。
また、陣羽織から派生して、火事の警備のために武士が装着したのが火事兜です。すすきに狼、家紋を月に見立てた浮世絵などにも通ずる絵画的な羽織を纏った「紺羅紗地ススキに狼刺繍火事装束」は、非常に緻密な刺繍で仕立てられており、狼の目には玉眼(水晶を薄く削った物)を嵌め、牙や爪には銀金具を縫い付けています。
月夜に吼える狼の堂々とした姿は迫力があり、濃紺地に口の中の赤色が鮮やかです。兜は四方白の星兜で、艶消しの錆色は主張せず羽織を引き立たせ、眉指(兜の額の庇)に雲龍の銅金具を設置しています。