「旗指物」(はたさしもの)は、広い意味では戦場で使われる旗全般を指す言葉ですが、現代では「当世具足」(とうせいぐそく)の付属品として個人の背中に取り付ける装飾物を指すのが一般的です。そのバリエーションと言える「母衣」(ほろ)、大将の所在を示す「馬印/馬標」(うまじるし)、軍全体を表章する「軍旗」(ぐんき)なども旗指物に分類されます。数千人、数万人が入り乱れる戦場において、敵か味方かをすぐに判別できるサインとしての実用性と、自身の誇りや戦意を奮い立たせながら個性を示すファッション性を兼ね備えた旗指物は、武将にとっては甲冑(鎧兜)と同じく重要なアイテムだったのです。戦国ファッションに欠かせないアイテム、旗指物を詳しくご紹介します。
「旗指物」(はたさしもの)の形状として最もポピュラーなのが、当世具足の付属品として背中に指して使う物です。
当世具足の背中には、「受筒」(うけづつ)と呼ばれる旗竿を入れる筒が必ず付いており、「合当理」(がったり)という金属パーツで固定されていました。そこに自分の所属する団体の旗指物を指し、同士討ちを避けながら戦ったわけです。
ベーシックなフォーマットは、正方形の「四方旗」(しほうばた)と長方形の「幟旗」(のぼりばた)の2種類。家紋をあしらった物が一般的ですが、例えば武田信玄の「風林火山」(ふうりんかざん)や加藤清正の「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)のように、自身の信念や信仰を示した物もあります。
それらとは別に、より華やかで目立つ物として「団扇」(うちわ)、「笠」(かさ)、「燕尾」(えんび)、「半月」(はんげつ)、「三日月」(みかづき)、「馬廉」(ばれん)、「鳥毛団子」(とりげだんご)、「提灯」(ちょうちん)、「吹貫」(ふきぬき)といった様々なデザインを採用した指物も出てくるようになりました。徳川の家臣である「大久保七郎右衛門忠世」(おおくぼしちえもんただよ)と「大久保彦左衛門忠教」(おおくぼひこざえもんただたか)の兄弟は、アゲハチョウをモチーフにした指物を掲げ、「長篠の戦い」で大活躍を見せたことで織田信長にも一目置かれる存在になったと言われています。
また、織田信長らの家臣だった「可児才蔵」(かにさいぞう)は本物の笹竹を指物として用い、首を討ち取った武将の口に笹の葉を突っ込んで戦場に残していくことで知られました。
しかし、実際にはこういった腕の立つ武将ばかりでなく、目立ちたい思いが先立ってしまい、機能性の低い指物のせいで命を落とした者も少なくなかったようです。
他にも、伊予西條松平家の隅切三つ葵紋の旗指物は、柄の先に結んで風になびかせる長大な流し旗、戦いの際に背中に指した背負い旗、その他に2枚の小型流し旗と木綿地ののぼりを備えています。
もうひとつ、当世具足の背中に装着するアイテムとして知られるのが「母衣」(ほろ)です。
母衣はもともと古代ローマや中国のマントが南北朝時代に日本に伝来、発展した物と言われており、当初は矢による攻撃を防御するために使われていました。
しかし、戦国時代になって鉄砲が普及すると、防具としてよりも装飾具としての意味合いが強くなり、竹などで組まれた丸い「母衣籠」(ほろかご)を絹で覆う形に変化。風が吹いていなくてもマントが風にたなびくように見えることから、ここぞという「見せ場」で好んで着用されるファッションアイテムになりました。
母衣を身に付けることができるのは使い番などの比較的身分の高い武将だったとされ、母衣をまとった武士の集団は「母衣衆」(ほろしゅう)と呼ばれました。彼らは母衣の柄や色に工夫を凝らし、戦場で自身の個性をアピールしていたのです。
「馬印/馬標」(うまじるし)は、軍の指揮を執る大将の所在を示す旗です。当世具足の背中に指して使う一般的な旗指物とは違い、軍の「司令塔」を誇示するための旗なのでサイズは大きく、戦場では体格が良く力持ちの「徒侍」(かちざむらい)が取り扱いました。
織田信長の「金塗りの唐傘」(きんぬりのからがさ)、豊臣秀吉の「金の逆さ瓢箪」(きんのさかさびょうたん)、徳川家康の「金扇」(きんせん)、柴田勝家の「金の御幣」(きんのごへい)などが有名で、その名前からも分かるように金を用いた豪華で派手な物が多く残されています。
例えば徳川家康の場合、金扇を「大馬印」(おおうまじるし)とし、他にも徳川本家の「葵紋」(あおいもん)をあしらった幟旗や、「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)と書かれた「浄土経文旗」(じょうどきょうもんき)、金地に赤丸の「太極旗」(たいきょくき)などが所狭しと本陣に掲げられていたと言いますから、戦地ではとても目立ったに違いありません。
軍全体の表章である「軍旗」(ぐんき)は、ある意味で軍の「看板」のような物です。敵と味方を識別するためのサインであると同時に、その軍の信条を示す物でもありました。
源平合戦の時代には、源氏は白旗、平家は赤旗というシンプルな物でしたが、戦国時代になると家紋をあしらった物の他、先に触れた武田信玄の風林火山や加藤清正の南無妙法蓮華経のように、大将の信条を表すスローガンやロゴのあしらわれた軍旗が採用されるようになりました。
例えば、天下布武を謳った織田信長の軍旗は「黄絹に永楽銭」(こうけんにえいらくせん)。中国から輸入された貨幣「永楽通宝」(えいらくつうほう)をあしらったデザインは、織田信長が流通経済への関心の高さを示していると言われています。そして、豊臣家や徳川家に仕えた「藤堂高虎」(とうどうたかとら)の軍旗は「紺地に白餅」(こんじにしろもち)。
浪人の時代、あまりに空腹だったために餅屋で無銭飲食をしてしまい、店の主人に詫びたところ、主人は笑って許しただけでなく、旅に必要な金銭を藤堂高虎に分け与えたそうです。その時の恩を忘れぬよう、白餅を3つ並べたデザイン(城持ちとのダブルミーニング)が採用されたと言われています。
旗指物と同じく、実用面においてもファッション面においても武将の自己プロデュースのために重宝されたのが「陣中道具」(じんちゅうどうぐ)です。
陣中道具と言えば「太刀」(たち)や「打刀」(うちがたな)といった武器、もしくは「陣貝」(じんがい)と呼ばれる法螺貝や「陣太鼓」(じんだいこ)、「陣鐘」(じんがね)といった鳴りものがまず思い浮かぶという人も多いと思いますが、ここで注目したいのは大将が軍の指揮に用いた道具類です。
軍の配置や進退を指示する際に用いられた道具が「軍配」(ぐんばい)です。「川中島の戦い」で、馬上からの上杉謙信の日本刀による斬撃を、武田信玄が軍配片手に受け止めたというエピソードが良く知られています。
また、「采配」(さいはい)も、大将やそれに近い地位にある武将が持つ物です。戦場において軍に合図を送るために使われ、30cm前後の棒に細長く切られた紙のボンボンのような物が取り付けられています。
同じく「軍扇」(ぐんせん)も大将クラスの人物が用いる道具ですが、戦での使用を想定して頑丈に作られています。いずれもオーケストラの指揮者が持つタクトのような物で、それらを巧みに駆使することで彼らは指導者としてのカリスマ性を高めたのです。
戦国武将達のファッションを現代に置き換えるなら、小袖や袴がインナーウェア、兜・甲冑(鎧兜)や陣羽織はアウター、そして旗指物や陣中道具はアクセサリーということになるでしょう。ディテールにまでこだわり、巧みに自己プロデュースをすることで部下や平民達の心を掴もうとした戦国武将達。
様々な人間の野望が渦巻く戦乱の世では、ただ「強い」だけの武将は生き抜いていくことができなかったのです。