「直江兼続」(なおえかねつぐ)は、火坂雅志(ひさかまさし)による歴史小説を原作とした2009年の大河ドラマ「天地人」(てんちじん)で主人公として取り上げられるまで、それほど有名な戦国武将ではありませんでした。しかし、このドラマで描かれた 、「愛」と「義」に生きた武将という人物像や人気俳優である妻夫木聡さんの好演により、直江兼続はたちまち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑や、同じく大河ドラマで取り上げられた伊達政宗・上杉謙信・武田信玄・前田利家・黒田官兵衛・真田幸村らと並ぶ人気と知名度を獲得。以降「イケメン武将」として描かれることも多くなっている直江兼続ですが、その実像はどうだったのでしょうか。 様々な文献や遺品などから、直江兼続の容姿やファッションセンスを推察してみましょう。
「直江兼続」(なおえかねつぐ)の容姿やファッションを伝える遺品や肖像画は、実のところそれほど多く残っていません。
直江兼続の跡取りとなるはずだった直江景明(なおえかげあき)が、1615年(元和元年)に22歳という若さで父に先立って病死。そのあとも養子を迎えることなく、1619年(元和5年)に直江兼続が、1637年(寛永14年)に妻・お船が死去し、直江家が断絶してしまったからです。
さらに、直江家の菩提寺である徳昌寺(とくしょうじ)と上杉家の菩提寺である林泉寺(りんせんじ)の間に争いが生じ、徳昌寺が破壊されてしまったことにより、直江兼続ゆかりの日用品なども保存されることなく消失してしまいました。
とはいえ、上杉景勝(うえすぎかげかつ)に仕えた名将ということもあり、主家(しゅか)である上杉家には直江兼続の使った甲冑(鎧兜)や兜、生前に収集した書籍、本人作の漢詩などが残されています。
上杉神社の宝物館である稽照殿(けいしょうでん)所蔵の「薄浅葱糸威二枚胴具足」(うすあさぎいとおどしにまいどうぐそく)は、直江兼続の名を聞けば多くの人が連想するであろう「愛」の文字を前立にあしらった兜で知られる甲冑(鎧兜)。
胴部分は鉄板を小札(こざね)がわりに蝶番(ちょうつがい)でつなぎ、「素懸威」(すがけおどし)と呼ばれる出羽最上地方(現在の山形県)で当時流行した形式で作られています。
金色の金属板で大きくかたどられた前立の「愛」の意味については、これまで3つの説が唱えられてきました。ひとつは上杉謙信が上杉景勝と直江兼続に説いた「愛民の精神」を忘れないよう、前立にあしらったという説。ひとつは恋愛や縁結び、家庭円満をつかさどる仏神であり軍神でもある「愛染明王」(あいぜんみょうおう)への信仰心から、毘沙門天(びしゃもんてん)由来の上杉謙信の「毘」の旗印を真似たという説。
そしてもうひとつは、京都・愛宕山(あたごやま)の山岳信仰と修験道(しゅげんどう)が融合して生まれた神「愛宕権現」(あたごごんげん)への信仰心という説。武田信玄や伊達政宗も愛宕権現を信仰し、自領にある愛宕神社を庇護しており、直江兼続が彼らと同じように愛宕権現を信仰していたとしても不思議ではないという理由から、現在は3つ目の愛宕権現信仰説がもっとも有力とされています。
このようなことから、直江兼続=「愛」と「義」に生きた武将というイメージのよりどころとなっている「愛」の前立は、必ずしも「慈愛」や「友愛」といった意味に由来する物ではなく、直江兼続の人物像についても、後年になって伝聞などで肉づけされた部分が少なくないと推測することができます。
「愛」の前立のイメージから、ファッションに敏感だったに違いないと思われがちな直江兼続ですが、実際の彼の衣食住は質素倹約がモットーだったようです。朝食のおかずは「山椒3粒のみで良し」とし、遺品として残されている羽織は、裏地が細かい継切れを縫い合わせた物だったと言います。
息子の直江景明と近江国膳所(ぜぜ)城主戸田氏鉄(とだうじてつ)の娘との婚儀の際、戸田家から朱塗りの金蒔絵をあしらった膳椀が贈られたため、家臣が同等の贈り物を準備するか直江兼続に聞いたところ、「その必要はない。同等の膳椀でなければ婚礼ができないと言うのなら、ただちに破約する。武士の魂である刀や槍が錆びていなければ恥じることはない」と答えたそうです。
またあるときは、伊達政宗が懐から得意げに取り出した大判を「手に取ってよく見よ」と手渡され、それに対して「私の手は戦陣で采配を執るためにあります。このような賎しき物を取れば手が汚れます」と答え、最後まで手に取らなかったと言います。
このような逸話から、ただ質素倹約なだけではなく、権力者に対しても媚びずに気骨を通す一面も見えてきます。
質素倹約で、自分を着飾ることには興味のなかった直江兼続ですが、その容姿は美しく端正で、いわゆるイケメンだったことを伝える文献がいくつか残されています。
江戸時代の儒学者である湯浅常山(ゆあさじょうざん)の記した戦国武将の逸話集「常山紀談」(じょうざんきだん)には「背が高く、並ぶ者がないほどの容姿であり、弁舌爽やかで大胆」と紹介されています。
また、幕末の藩士である岡谷繁実(おかのやしげざね)による武将192名の逸話集「名将言行録」(めいしょうげんこうろく)にもやはり同じような記述があります。いずれも直江兼続の存命中に書かれた物ではありませんが、「薄浅葱糸威二枚胴具足」の他、いくつか残されている直江兼続所用とされる甲冑(鎧兜)がいずれも大ぶりであることから、直江兼続が長身でアスリート的な体格を持つ武将であったことは明らかです。
そして、現存するいくつかの肖像画を見ても切れ長の目とすっきりと通った鼻筋が印象的で、決して不細工な武将ではなかったであろうことがうかがえます。
優れた武将・政治家として名を残す直江兼続は、一方で大変な読書家であり、一流の文人であったと伝えられます。まさに文武両道を地でいく人物であり、その容貌に見合った教養を備えた人物だったのです。
山形県の市立米沢図書館には直江兼続が収集したとされる漢書146点、和書62点が残されており、現在これらは米沢市の指定文化財となっています。
なかには宋の時代の中国で刊行された「史記」、「漢書」、「後漢書」など、本国でも完全な形では残っていない貴重な書籍や直江兼続自身が京都の要法寺で印刷させた「直江版文選」(なおえばんもんぜん)も含まれ、直江兼続の博学・好学ぶりが伝わってきます。
見目麗しく、高い教養を持つ直江兼続ですから、浮いた話も多かったのでは?と勘ぐる人も多いでしょう。しかし、側室を持つことが当たり前だったこの時代、直江兼続は正室のお船としか生涯婚姻関係を結びませんでした。とはいえ、直江兼続にそういったロマンスがいっさいなかったわけではありません。
若き日の直江兼続が書いたとされる「織女惜別」(しょくじょせきべつ)という詩作が残されており、そこでは燃えるような恋心を吐露する意外な直江兼続を見て取ることができます。
また、直江兼続が42歳のときに書いたとされる「逢恋」(ほうれん)という詩も残されており、そこでは「山河のある限り、この愛は変わらない」という、情熱的な誓いで締め括られています。
これらが誰に向けられた詩であったかは定かではありませんが、戦や政治だけでなく、女性に対しても情熱家であった直江兼続の一面を捉えた貴重な資料であることは間違いありません。