「石田三成」(いしだみつなり)と言えば、そのずば抜けた知力と政治力で知られる戦国武将です。若くして豊臣秀吉の寵愛を受け、みるみるうちに頭角を現した石田三成は、同じ豊臣秀吉の家臣でも武闘派の加藤清正(かとうきよまさ)らとは異なる、官僚タイプの文治派(ぶんちは:豊臣秀吉政権における派閥のひとつ)でした。その出自だけを見ると、いかにも地味でファッションリーダーとは思えないような存在ですが、豊臣秀吉の信頼を得るに至る「三献の茶」(さんけんのちゃ/さんこんのちゃ)の逸話や、豊臣秀吉の死後も忠義を守り、「関ヶ原の戦い」で大敗してもなお再起の機会をうかがっていたという志の高さから、多くの歴史ファンの心を捉え続けています。そんな石田三成の遺物や逸話から、彼の実像に迫ってみましょう。
1907年(明治40年)京都・大徳寺が行った墓地改葬の際に、関ヶ原の戦いで敗れて処刑された「石田三成」(いしだみつなり)の墓が発見されました。
頭蓋骨・大腿骨・上腕骨など、人間一体分の骨が揃っており、遺骨は当時の解剖学研究の第一人者だった京都大学の足立文太郎(あだちぶんたろう)教授のもとで丹念に検証されたのです。
そして、1976年(昭和51年)、足立教授が作成した頭蓋骨の石膏模型の写真と計測値をもとに、復顔が行われました。復顔とは頭骨に粘土などで肉付けをして、義眼やかつらを取り付け、生前の顔を復元する技術で、西欧諸国ではすでにバッハやゲーテの復顔が行われていましたが、日本ではまだまだ珍しく、蘇った石田三成の素顔は多くの歴史ファンを驚かせました。
「骨格は女性と間違えるほど華奢」、「当時としては珍しい細面で、頭は前後に出っ張っている」、「鼻は高く隆起し、鼻筋の通った優男タイプ」、「かなりの出っ歯」、「身長は156cm程度」といった鑑定結果は、現代人の感覚からすると「イケメン」とは言い難いように思えます。実際、同じ豊臣秀吉の家臣ながら犬猿の仲だった加藤清正は、文治派の石田三成を「背の小さいおべっか使い」と罵ったそうです。
しかし、156cmという身長は当時としては平均的であり、石田三成は飛び抜けて小さかったわけではありません。加藤清正が当時としては非常に大柄で屈強な身体の持ち主であったため、石田三成が小さく貧弱に見えたのでしょう。
また、江戸時代の書物「淡海古説」(たんかいこせつ)には「痩せ身で透き通るような色白。目は大きくまつ毛が長い。声は女のよう」といった記述があり、幕末の藩士である岡谷繁実(おかのやしげざね)の著作「名将言行録」(めいしょうげんこうろく)にも、「石田三成は美少年であったため、豊臣秀吉の寵愛を受けた」といった内容が記されています。
このことから石田三成は、色白でほっそりとした、当時の武将としては異形と言って良い風貌の持ち主だったと思われ、筋骨隆々のマッチョなタイプが多かったであろう武家社会では様々な意味で目立つ存在だったに違いありません。
そんな石田三成の肖像画として、東京大学史料編纂所所蔵の「石田三成像」がよく知られています。横縞模様があしらわれた、くすんだ緑色の小袖に青色の肩衣(かたぎぬ)と袴を合わせており、袖口の鮮やかな赤色がアクセントとして効いています。
肩衣の前身左右と小袖のひじあたりに見られるのは、石田三成のシンボルとして知られる「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)です。「ひとりが万民のため、万民がひとりのために尽くせば、世に太平が訪れる」という意味を持つこの家紋は、石田三成が関ヶ原の戦いで出陣した際にも旗印として使用されました。
この肖像画が描かれた時代は定かではありませんが、正面を見据える神経質そうな眼差しや、猫背でほっそりとした上半身、そして色白の肌などを見ると、石田三成の容姿にまつわる検証は間違いないように思えます。
石田三成の武具としてよく知られているのが、「乱髪天衝脇立兜」(らんぱつてんつきわきだてかぶと)です。実物は現存せず、複製が関ケ原町歴史民俗学習館に展示されています。乱髪と呼ばれる黒い毛は、ヤク(チベットに生息するウシ科の動物)の毛を染めた物で、頭上に長く伸びる黄金の2本の脇立と、同じく黄金の鉢とのコントラストが印象的です。
豊臣秀吉政権下において「頭の切れる事務方」として評価された石田三成ですから、戦の際には軍事的な戦略や兵士や武具、食料の補給や輸送といった後方支援的な役割に回ることが多かったと言われています。この兜を実際に戦地で被ったかどうかの記録も残っていません。
しかし近年は、大河ドラマなどでこの兜を被った猛々しい石田三成の姿が描かれることが多く、それが石田三成という戦国武将のイメージを押し広げたことは間違いでしょう。
もうひとつ、石田三成の甲冑として知られるのが紀州藩宇治田家に伝わる「紅糸素掛縅伊予札二枚胴具足」(くれないいとすがけおどしいよざねにまいどうぐそく)です。
紀州藩の砲術指南役だった宇治田家が、紀州藩初代藩主の浅野幸長(あさのゆきなが)から「関ヶ原の戦いの戦利品」として拝領したと言われるこの甲冑の兜は、鉢が阿古陀形(あこだがた:アコダウリのように丸い形)に作られており、正面には日輪をモチーフにした金銅の円形板の前立が取り付けられています。
「乱髪天衝脇立兜」のようなに英雄めいた派手さはありませんが、むしろ控えめなデザインのこの兜にこそ石田三成らしい知性を感じるという歴史ファンは多いのではないでしょうか。
小さい頃、現在の滋賀県坂田郡山東町にあたる大原の観音寺の小僧だった石田三成。長浜城主だった豊臣秀吉がその寺に立ち寄った際、茶の振る舞いに感心して側近にしたという「三献の茶」の逸話からも分かるように、豊臣秀吉は生涯石田三成を重用し、その評価を下げることはありませんでした。
「自分が死んだあと、天下を治めるのは誰か?」という豊臣秀吉の問いに、家臣達は前田利家(まえだとしいえ)や徳川家康、毛利輝元(もうりてるもと)らの名前を次々に挙げましたが、豊臣秀吉は納得せず、「天下を治めるのは、当代一の知恵者、石田三成である」と答えたと言われています。
明晰な頭脳と主君である豊臣秀吉への忠誠心の高さで歴史ファンを魅了してきた石田三成。それが現在、石田三成の人物像だけでなく、容姿までも美化させていることは間違いないでしょう。石田三成がいかに豊臣秀吉に気配りをしていたかがうかがえるエピソードとして知られるのが、毛利輝元から献上された大桃の話です。
ある年の10月、石田三成のもとに安芸(現在の広島県西部)の毛利輝元から「秀吉公への献上物」として大きな桃が届きました。旧暦の10月は、新暦で言えば10月下旬から12月上旬。夏が食べ頃の桃がこの時期に食べられるだけでも珍しいのに、かくも大きな桃が献上されたことに石田三成も大いに驚いたと言います。
珍しい物好きの豊臣秀吉ですから、桃を献上されて喜ぶことは目に見えていました。しかし、旬の物に比べて栄養価が数段落ちるであろうその桃を豊臣秀吉が食べて身体を壊すようなことがあれば、毛利輝元も気が気であるまい。そう考え、豊臣秀吉に忖度した石田三成は、桃を毛利家の使いの者に返却してしまったのです。
そんな石田三成は、自らもかなりの健康志向だったと言われています。関ヶ原の戦いで敗れ、徳川家康によって処刑された石田三成は、首をはねられる前に差し出された干し柿を見て「干し柿は痰の毒。私は痰持ちだから食べない」と言って突き返しました。日頃から好物の「かた粥」で胃腸を整えていたという石田三成らしいエピソードです。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 石田三成の肖像