戦国時代のファッションリーダーと聞いて、多くの人が真っ先に連想する武将のひとりが「伊達政宗」(だてまさむね)ではないでしょうか。死後に広まった「独眼竜」(どくがんりゅう)の異名も手伝ってか、伊達政宗は「かっこ良い戦国武将」の筆頭として織田信長に負けず劣らずの人気を誇っています。これまでに中村錦之助、渡辺謙、高橋英樹、椎名桔平といった俳優が演じ、数多くの映画やドラマが作られてきたことからもその人気ぶりがうかがえるでしょう。史実や伝承から、伊達政宗の人間性やファッションの志向などを見ていきます。
「伊達政宗」(だてまさむね)は東北の名門・伊達家の17代当主で、1567年(永禄10年)に出羽国(現在の山形県)で生まれました。
23歳の若さで東北の諸大名を滅ぼして奥州の覇者になるほどの実力者でしたが、すでに天下を統一する寸前まで勢力を拡大していた豊臣秀吉に及ばず豊臣秀吉の臣下となったため、「遅れてやって来た天下人」と称されることもあります。
本人も晩年、「あと20年早く生まれていれば、天下を取ることができたかもしれない」といった発言をしたとされています。武勇伝に事欠かない伊達政宗ですから、歴史マニアの間にも伊達政宗ファンは多く、イラスト化される場合には決まって「長身のイケメン」として描かれますが、実際のところ伊達政宗の容姿はどのようなものだったのでしょうか。
伊達政宗は遺物が比較的多く残されている武将であり、遺骨から身長は159.4cmほどであったことが分かっています。また、宮城県の「みちのく伊達政宗歴史館」には、墓から掘り起こされた伊達政宗の頭蓋骨をもとに復元した顔が展示されています。失明した右目は閉じられているものの、左目はくっきりとした二重で大きく、スッとした鼻筋の端正な顔つきをしています。
当時の男性の身長は160cm前後だったと言われているので、特に長身だったというわけではありませんが、顔についてはイケメンと呼ぶに充分な、リーダーらしい品格を備えていると言って良いでしょう。なお、遺髪から血液型はB型だったことが判明しています。
伊達政宗と言えばまず、右目を覆う眼帯を思い浮かべる人が多いでしょう。確かに幼少時に天然痘(てんねんとう)を患い失明したことは事実ですが、眼帯をしていたという記録や肖像画が残されているわけではなく、これは現代の映画などで描かれるようになってから後付けされた物だと言われています。
実際、伊達政宗は隻眼(せきがん)であることにコンプレックスを持っていたようで、「肖像画には両目を描くように」という遺言まで残していますが、珍しい例外として京都・東福寺に所蔵される土佐光貞(とさみつさだ)の描いた「伊達政宗像」が現存しています。
冠に黒の袍(ほう)を付け、指貫(さしぬき)の袴と黒の束帯(そくたい)を着用したここでの伊達政宗は、右目を閉じ、大きく見開いた左目で正面を見つめています。失明した右目については、自らえぐり出して潰したなどの逸話が残っていますが、側近の片倉景綱(かたくらかげつな)に潰させたという説もあり、実際のところははっきりと分かっていません。
いずれにしても、伊達政宗がこの右目について生涯複雑な気持ちを抱いていたことだけは間違いないようです。
伊達政宗の甲冑(鎧兜)と言えば、弦月形(げんげつがた:半月の形)の前立を付けた六十二間筋兜と鉄地黒漆塗りの五枚胴(5枚の鉄板を使って堅牢に仕上げられた胴)で構成された「黒漆五枚胴具足」(くろうるしごまいどうぐそく)が有名です。
半月状の前立を採用した武将は伊達政宗だけではなく、伯父にあたる最上義光(もがみよしあき)らの兜にも見られますが、伊達政宗の場合は左右非対称でシルエットが極めてシャープであることが特徴です。
また、黒を基調にアクセントとして金色を使った五枚胴のスタイルは伊達政宗の強い美意識が反映されており、そのあとの歴代藩主や家臣の具足にも受け継がれ、「仙台胴」の異名で知られるようになりました。クールななかに力強さの感じられるこの甲冑(鎧兜)を身に付けて陣頭指揮を執る伊達政宗は、戦場でもカリスマ的な威容を誇っていたことでしょう。
伊達政宗は、織田信長に負けず劣らず南蛮文化を積極的に取り入れた武将として知られています。当時の記録などから、南蛮由来の砂時計・ロザリオ・眼鏡・ブローチ・鉛筆・日時計兼方位磁石・ガラスの器などを所有していたことが分かっており、新しい物好きな真のファッションリーダーであったことがうかがえます。
健康マニアとしても知られ、体に良いという噂から1日3回の煙管(キセル)による喫煙を欠かさなかったとか。遺品として愛用の煙管も残されています。なかでも伊達政宗のファッションリーダーぶりについて、現代まで語り継がれるのが1593年(文禄2年)、豊臣秀吉による明(みん:現在の中国)侵略戦争「文禄の役」(ぶんろくのえき)に出兵した伊達軍のエピソードです。
3,000人はいたとされる伊達軍の出で立ちは、都人も目を見張るほどすべてが絢爛豪華な物だったと言われ、派手な装いを着こなす人物を指す言葉「伊達者」(だてもの)はここから生まれたという説もあります。
このときに伊達政宗が着用していたとされる陣羽織が残されています。ひとつは「黒羅紗地裾緋羅紗金銀モール陣羽織」(くろらしゃじすそひらしゃきんぎんもーるじんばおり)。ポルトガル伝来のマントをイメージさせる袖なし・丸襟のシルエットで、襟には南蛮服飾に良く見られる「ひだ飾り」が付けられていた跡も残っています。この陣羽織の最大の特徴は製法です。
裾にある緋色の山形の文様は、単純に黒羅紗の上から緋羅紗を縫い付けた物ではなく、山形文様に切断された黒羅紗と緋羅紗の切断面を、縫い目の見えない特殊な手法でひとつひとつ巧みに縫い合わせているのです。このように手の込んだ陣羽織を涼しい顔で着る姿は、それこそ伊達者だったに違いありません。
もうひとつは「紫羅背板地五色水玉文様陣羽織」(むらさきらせいたじごしょくみずたまもんようじんばおり)です。紫の薄地の陣羽織で、表地の下部には赤・青・黄・緑・白の5色の羅紗による大小様々な水玉模様があしらわれ、強いアクセントとなっています。背中の上部には伊達家の「竹雀紋」(たけにすずめもん)が金糸の刺繍で縫い付けられている他、裏地には黄緑糸の平絹が使用されるなど、伊達政宗のファッションに対する強いこだわりが伝わってきます。
戦国武将にとって、ファッションセンスと同じぐらい必要とされるのが教養です。どれだけ着飾っても、部下を諭し「この人に付いていきたい」と思わせるだけの教養がなければ、組織のトップになれません。それは戦国時代でも現代でも変わらないのです。
伊達政宗は第1級の教養人だったと言われており、幼少期は臨済宗の僧である虎哉宗乙(こさいそういつ)に師事し、仏教や漢詩を習得。成人後も茶道・書道・能などを趣味とした他、豊臣秀吉主催の歌会ではなくてはならない存在として和歌の才能を発揮していたと言われます。
伊達政宗の言行録「御名語集」(おんみょうごしゅう)によると、とにかく伊達政宗は時間を無駄にすることを嫌い、少しでも時間があれば読書などをして過ごしたそうです。また、記憶力の良さでも知られ、部下やその子どもの名前を決して忘れることがなかったと言われています。