豊臣秀吉が1588年(天正16年)に刀狩(かたながり)を全国に向けて布告したことにより、武士以外の庶民は帯刀が禁じられ、手持ちの日本刀はすべて没収されました。これにより兵農分離が進み、武士・百姓・町人といった身分の差が以前に増して明確なものとなります。一方で、室町時代後期から盛んになった商売事は、戦国時代の貨幣経済の浸透によりさらに活性化していき、城下町は物を売る人やサービスを提供する人と、それを求める人でごった返していました。この頃のファッションは、身分の違いにかかわらず小袖(こそで)を中心としたカジュアルなスタイルへと変わっていった時代でもあります。もちろん生地の質などに身分の差は出ましたが、機能性が重視されたこの時代にあって、小袖は武士にとっても庶民にとっても欠かせないアイテムだったのです。そういったことを踏まえつつ、戦国時代の庶民が普段どんな格好をしていたのか、職業別にご紹介していきましょう。
現在のように通信手段が発達していない戦国時代、手紙や金銭、小さな荷物を運ぶのは「飛脚」(ひきゃく)と呼ばれる者達の仕事でした。飛脚は平安時代後期から存在し、江戸時代に大きく発展した職業です。
戦国時代の段階ではまだ飛脚制度が十分に整っておらず、加えて諸大名が領国に関所を設けていたこともあり、領国を越えた通信は困難でした。そのため、公式な手紙のやりとりは基本的に大名の家臣が受け持つのが常であり、非公式な連絡には山伏(やまぶし)などが密使として遣わされたと言います。
飛脚というと、上半身はランニングシャツのような腹掛(はらかけ)を着て、下半身はフンドシがちらちらと見えるほど裾をまくり上げ、先端に手紙を付けた棒を持って疾走する姿を想像する方が多いと思いますが、実はこのスタイルが確立したのは江戸時代に入ってからでした。
手紙や金銭、小さな荷物を運ぶのは飛脚の仕事でしたが、人が担いで持ち運ぶのが難しい大きな荷物を運ぶのは「馬借」(ばしゃく)の仕事でした。現代に置き換えるなら、飛脚は郵便業、馬借は運送業といったところでしょうか。
農民達の副業として室町時代以前から存在した仕事ですが、戦国時代には専門業者がかなり増加していたようです。馬の背中に荷物を載せ、その馬を別の馬に乗って(もしくは歩きで)引率するという極めてシンプルな仕事ですが、飛脚と同じく長距離移動で体を酷使するため、服装に気を遣うような余裕はありませんでした。
とにかく動きやすいことだけを考え、身丈の短い小袖を着ていたようです。暑さをしのぐため、袖を切り落とした小袖を着ている馬借も珍しくなかったのです。
時代劇などで、町を行き交う町人が天秤棒(てんびんぼう)を担いで歩く様子に見覚えのある人は多いのではないでしょうか。ざる、木桶、かごなどを天秤棒の両端に取り付け、そこに商品を入れて行商する者を総称で「振売」(ふりうり)と呼びますが、業種によって扱う商品は様々です。八百屋なら野菜や果物を、雑貨屋なら多様な日用品を入れて町を練り歩きました。
基本的には自分の店を持たない商人が行う商業形態であるため、商人の中でも貧しい者が大多数だったと言われています。そのため仕事着は普段着の小袖に前掛け代わりの腰蓑(こしみの)を付ける程度。足もとは草鞋(わらじ)か素足で、長距離を移動する際にはすねを守る脚絆(きゃはん)を使用しました。
振売は江戸時代以降さらに発展し、食品や日用品の販売の他、衣服の修繕、家具や文具の修理、あんまといったサービス業を展開する者も増えていきました。
庶民のなかでも、職人と呼ばれる人々は誇りや威厳を保つために武士と同じような格好をしていたと言われます。例えば武士には欠かすことのできない刀剣を作る職人である「刀匠」(とうしょう)は、小袖の上に直垂(ひたたれ)を着用し、頭には侍烏帽子(さむらいえぼし)を被るスタイルが基本でした。
刀匠に限らず、戦国大名や武士の使用する甲冑(鎧兜)や馬具などを作る職人もこのような格好で仕事をしていたようです。ただ、溶けた鉄の塊を鍛造し、刀剣の形に仕上げていく過程では、常に炎と向かい合わなければならないため、公の場に出ない場合には小袖&袴、頭には手ぬぐいというカジュアルなスタイルで作業をすることもありました。
刀工(とうこう)、刀鍛冶(かたなかじ)とも言われる刀匠の仕事は、現在に至るまで存続しており、様々な流派に分かれながらそれぞれに技を磨き続けています。
カモやキジといった鳥類や、ウサギやキツネなどの哺乳類を鷹に捕獲させる鷹狩りは、中国やモンゴルでは紀元前3000年頃から、日本では古墳時代(3世紀中頃)あたりから始まったと言われています。古来より鷹狩りは、生活のための狩猟活動ではなく、権力者による威厳の象徴という意味合いが強く、戦国時代から江戸時代においては織田信長や徳川家康が好んだことで知られています。
鷹の飼育・訓練・狩猟のすべてを担うのが「鷹匠」(たかじょう)という仕事です。江戸時代には幕府の若年寄(わかどしより)の配下に位置付けられ、公的な職業となりましたが、リーダー格以外は旗本など、身分の低い者ばかりだったと言われています。
権力者としてのパフォーマンスをかね、綾藺笠(あやいがさ)や弓籠手(ゆごて)をおしゃれに着込んだ武将とは違い、一般的な鷹匠の服装は、基本的には刀匠と違いがなく、直垂と侍烏帽子といったスタイルが中心でした。
なお、現代の鷹匠は西洋のスタイルを取り入れ、和服にハンチング帽を被り、専用のグローブを装着しています。ハンチング帽はその名の通りHuntingに由来し、イギリスで狩猟用の帽子として考案された物です。
「遊女」(ゆうじょ)に関する記述は、日本では「万葉集」にまで遡ります。
「遊行女婦」(うかれめ)という呼称で書かれた彼女達の仕事は、定住せずに各地を巡り、宴席で歌や踊りを披露することが中心でしたが、戦国時代に遊郭(ゆうかく)が作られる頃になると、その意味はほぼ娼婦と同義になっていきました。
遊郭で働く遊女には厳格なランク付けがされており、江戸時代には高級遊女を特別に「太夫」(たゆう)、のちに「花魁」(おいらん)と呼ぶようになりました。ランクの低い遊女の服装は一般の女性とほぼ違いがなかったようですが、好んで身丈の長い小袖を着る傾向にあったとも言われています。
一方で、幅広い教養と美貌を併せ持った者だけしかなることができなかった花魁は、平安時代の十二単のように華やかな色打掛(いろうちかけ)をまとっていました。髪型も非常に凝ったもので、結い上げた髪が見えなくなるほどたくさんの髪飾りを挿していたと言います。
花魁は、現代で言えばカリスマモデルやファッションリーダーのように、その身なりが同性からも注目されていたのです。また、花魁は見た目としては芸者とほとんど違いがありませんが、芸者はより歌や踊り、話芸に秀でた者として捉えられ、京都では後年「芸妓」(げいこ)と呼ばれるようになりました。