戦国時代の庶民の服装について、さらに掘り下げてみましょう。飛脚や馬借、振売といったサービス職、刀匠や鷹匠の技術職、華やかながら激しい競争を強いられた遊女のファッションを見てきましたが、ここで取り上げるのは宗教的な仕事に従事した人々のファッションです。「八百万の神」(やおよろずのかみ)という言葉があることからも分かるように、古くから日本では多種多様の神が信じられてきました。古代の伝説的な人物(天照大神[あまてらすおおみかみ]や須佐之男命[すさのおのみこと])、森羅万象の自然物(山や海、岩や樹木)など、信仰の対象は幅広く、宗教者達はそれぞれの信じる神のため、俗世界とは一定の距離を置いたストイックな生活を送っていたのです。
戦国時代の宗教にかかわる仕事として挙げられるのが、いわゆる「天狗のような格好」で修行を行った「山伏」(やまぶし)です。
山中で厳しい修行をすることで特別な力を手に入れ、その力を使って祈祷や呪術などを行いました。山伏は、「修験道」(しゅげんどう)と呼ばれる山岳信仰と仏教が合わさった日本独自の宗教を信じ、実践していました。
彼らは「神が宿る」と言われる山に長期間籠もり、滝に打たれたり、火の上を歩いたり、断食したりといった忍苦を重ね、霊的な力を身に付けたと言われています。時代劇のワンシーンで、雨乞いの祈祷を行う山伏の姿を見たことがあるという人もいるでしょう。
山伏のファッションを特徴付けている物と言えば、まず思い出されるのが頭に付けた小さな帽子。これは「頭襟」(ときん)と呼ばれる物で、布を黒漆で塗り固めて作られています。中心の突起部から放射状に12の襞(ひだ)が設けられていますが、これは仏教における「十二因縁」(じゅうにいんねん:迷いや悩みを滅するための12項目を系列化した仏教の教え)の考えを表した物と言われています。
もうひとつ、山伏のアイテムとして印象深いのが「法螺」(ほら)です。ホラ貝の貝殻を加工した笛の一種で、山の神に入山を知らせたり、安否を知らせたり、クマやオオカミの襲撃を避けたりする目的で使用されました。
上下の衣服のベースとなっているのは麻製の「鈴懸」(すずかけ)で、丸いふわふわの飾りが4~6個付けられた「結袈裟」(ゆいけさ)を肩から掛けます。険しい山中を長距離移動するため、「金剛杖」(こんごうつえ)という八角(もしくは四角)の長い杖もマストアイテムでした。
武士とも僧侶とも異なる独特のファッションに身を包み、俗世間から離れて苦しい修行を続けた山伏の存在は、多くの人の目に特異な存在として映ったことでしょう。
「鉦叩」(かねたたき)は、厳密な意味では宗教者ではなく、どちらかと言えば芸人に属する人々です。往来で鉦を叩きながら念仏を唱え金銭を乞う姿は、時代劇などでもよく知られています。
言わば「半僧半俗」(はんそうはんぞく)の存在であり、衣服も一般的な小袖などの簡素な物が多かったようです。鉦叩が使用するのは「摺鉦」(すりがね)や「鉦鼓」(しょうこ)といった直径15cm前後の金属製の打楽器で、これを「撞木」(しゅもく)という棒で叩きながら、通りや民家の前で念仏を唱えました。
鉦叩と言えば、その典型的なイメージとして平安時代の僧、「空也」(くうや)の姿を再現した「空也上人像」(くうやしょうにんぞう)が挙げられます。首から鉦を下げ、右手には撞木、左手には先端に鹿の角が取り付けられた長い杖を持ち、口元からは「南無阿弥陀仏」の経文を視覚化した6体の阿弥陀仏像が吐き出されています。
出家・得度(とくど)を経て仏門に入る女性を「尼僧」(にそう)、もしくは「尼」(あま)と呼びます。仏教に限らず、キリスト教の修道女(シスター)も日本では「尼さん」と呼ばれることがありますが、仏教では基本的に剃髪(ていはつ)が原則。出家した女性はみな髪を剃り落とし、頭襟で頭部を覆い隠しました。
尼僧の服装には特に明確な決まりがあるわけではなく、宗派などの違いによって身に付ける物なども異なりますが、頭襟を被り、肩から袈裟をかける点は現代に至るまでほぼ共通しています。また、出家する女性はもともと身分の高い家柄の出身であることが多く、外出時には仕立ての良い日傘を使用していたと言われます。
尼僧の格好で良く知られる人物に、源頼朝の正室だった「北条政子」(ほうじょうまさこ)がいます。源頼朝の死後に出家し、藤原頼経(ふじわらのよりつね)の後見として政権を実質的に掌握。その辣腕ぶりから「尼将軍」と呼ばれました。
「犬神人」(いぬじにん)は、神社で働く身分の低い神官のことです。京都・祇園の八坂神社などの犬神人が良く知られ、境内や近辺の警備や清掃、死骸の処理などを主な仕事としていました。犬神人の出で立ちを特徴付けるのが、顔を覆う白い布です。
戦国時代の初期までは、社会的に身分の低い者は顔を布で覆うことが多く、これには社会で「影」にあたる仕事を担う者という意味合いもありました。丈の短い小袖に脚絆といった実用性に特化した簡素な服装からも分かるように、彼らは封建社会において限りなく低い身分に追いやられた人々だったのです。
「高野聖」(こうやひじり)は、鎌倉時代以降に高野山を拠点として地方を遊行(ゆぎょう)した僧侶のことです。高野山の僧侶のなかでは最下級に位置付けられており、僧侶としての布教活動だけでは生活が立ち行かないため、呉服などの行商人と兼業している者がほとんどだったと言われています。
僧侶とは言え身分の低い彼らは、やはり鉦叩や犬神人と同じように簡素な出で立ちでした。小袖の重ね着に脚絆、笠をかぶり、背中には売るための呉服などを詰め込んだ笈(おい)を背負うのが、典型的な高野聖のスタイルです。
作家の泉鏡花(いずみきょうか)による短編小説「高野聖」は、旅をする若者がひとりの高野聖と出会い、彼の不思議な体験を話し聞かせる作品で、常に旅を続ける彼らの生活とファンタジー要素を結び付けた名作として知られます。
また、水中に生息する昆虫のタガメが、背中に笈を背負った高野聖の格好に似た斑点を持つことから高野聖という別名で呼ばれることがあります。
聖(ひじり)とは本来、仏教の高僧(位の高い僧侶)を指す言葉でしたが、時代を経て民間の僧や巡礼者なども含むようになり、高野聖のような兼業スタイルの僧も増えていきました。高野聖と同じく、戦国時代に多くなったのが「勧進聖」(かんじんひじり)です。
勧進とは、僧侶が庶民に普及活動の一環として行う活動のことで、簡単に言えば寺院や仏像の建設・修復のために金銭の寄付を募ることです。
古くは鉦叩の空也なども勧進聖として全国を説法しながら回った他、琵琶法師が「平家物語」の全句を語る「勧進平家」(かんじんへいけ)といった変化球的なスタイルまで登場し、聖は様々な形で募金活動に力を入れるようになりました。
勧進聖は、外見的には高野聖よりも一般的な僧侶に近く、モノトーンの小袖の上から数珠をかけ、念仏を唱えながら柄の長い柄杓(ひしゃく)を差し出して寄付を集めました。彼らもまた身分の低い僧侶が少なくなかったため、僧侶っぽいスタイルではあるものの、高僧のように上質な袈裟などは身に付けていなかったと言われます。