江戸幕府を開いた「徳川氏」の始祖とされているのが、室町時代前期の武将「松平親氏」(まつだいらちかうじ)です。しかし、その出自や事績は謎が多く、実在の人物なのかどうかもはっきりしていません。史料が江戸時代以降にまとめられた物しかなく、徳川氏によって史実が歪曲されている可能性があるためです。数少ない史料である「松平氏由緒書」や「三河物語」の記述をもとに、松平親氏の生涯を紹介。「松平氏」(のちの徳川氏)の礎が築かれた経緯をひも解きます。
「松平親氏」(まつだいらちかうじ)はもともと、上野国(現在の群馬県)の「新田荘」(にったのしょう:群馬県太田市)を治めていた新田氏に連なる人物だと言われています。
「足利氏」との戦いに敗れたことで流浪の身となり、出家。「時宗」(じしゅう:鎌倉仏教のひとつ)の僧侶「徳阿弥」(とくあみ)を名乗って、三河国(現在の愛知県東部)に流れ着きました。ただし、諸国を遍歴する賎民だったとする説もあり、真相は定かではありません。いずれにしろ、日々の生活に困窮する状況だったとされています。
しかし、「松平郷」(まつだいらごう:愛知県豊田市)を領する「松平信重」(まつだいらのぶしげ)との出会いにより、状況が一変。武芸と教養を買われて婿養子となり、松平郷を継承することになったのです。
なお、江戸時代の史料「松平氏由緒書」によれば、出自を問われた際に「流浪の者で恥ずかしく存じます」と恐縮しており、つまり素性の知れない人物が跡継ぎになったことになります。この不自然さも実在が疑われる要因のひとつ。
松平郷を継承した松平親氏は、ともに流浪の身だった弟(息子とする説もあり)の「松平泰親」(まつだいらやすちか)と力を合わせて、領地拡大に動き出しました。ただし、近隣には室町幕府の「奉公衆」(ほうこうしゅう:将軍の親衛隊)がおり、また一帯には室町幕府の直轄領も存在。うかつに武力行使できる状況ではありませんでした。
そこで取った行動が土地の買収。こうして近隣の「中山七名」(なかやましちみょう)と呼ばれる土豪を味方に付け、松平氏の基盤が築かれたのです。なお、買収の原資となったのは、先代・松平信重の財力。実は三河国では有数の「有徳人」(うとくにん:富裕層のこと)として知られる人物だったのです。