「松平信光」(まつだいらのぶみつ)のあとを継いで「松平氏」(のちの徳川氏)の4代目当主となった「松平親忠」(まつだいらちかただ)は、戦上手として知られる人物です。松平氏から徳川氏へと発展した家柄「安祥松平家」(あんじょうまつだいらけ)の初代でもあり、徳川氏の下地を作り上げたことでも知られています。しかし、当初は分家の当主に過ぎませんでした。なぜ松平親忠は松平氏宗家の立場にまで上り詰めることができたのでしょう。松平氏の名を世に知らしめた「明応の井田野合戦」(めいおうのいだのかっせん)の経緯などとともに、その生涯を振り返ります。
「松平親忠」(まつだいらちかただ)は、1438年(永享10年)に3代目当主「松平信光」(まつだいらのぶみつ)の三男(四男とする説もあり)として誕生。
江戸時代に書かれた「三河物語」(みかわものがたり)によれば、父が「惣領」(そうりょう:家督相続人。名は不明)に「岩津城」(いわづじょう:愛知県岡崎市)を相続させ、次男の「松平源次郎」(まつだいらげんじろう)に「大給城」(おぎゅうじょう:愛知県豊田市)、そして松平親忠に「安祥城」(あんじょうじょう:愛知県安城市)を譲ったと記されています。
つまり、安祥城主となった松平親忠は宗家の当主ではなく、分家の当主だったのです。松平親忠の曾孫「松平清康」(まつだいらきよやす:徳川家康の祖父)が「安祥松平家」(あんじょうまつだいらけ)の4代目当主を自称していたことも、それを裏付けています。
松平親忠が、松平氏における事実上の当主と目されるようになったのは、1493年(明応2年)の「井田野合戦」(いだのかっせん)が大きく影響しました。三河国(現在の愛知県東部)の土豪「中条氏」(ちゅうじょうし)を中心とする約4,000の兵が松平領に侵攻した際、松平親忠がほぼ独力で敵を退けたのです。
実はこのとき、岩津城を守る松平家惣領や大給城の松平源次郎は京都へ出仕しており、約2,000の兵力しかありませんでした。しかし果敢に井田(現在の愛知県岡崎市)で迎え撃ち、見事勝利。これにより松平親忠は、三河国の実質的な支配者として君臨するようになりました。
1501年(文亀元年)に没した際は、亡骸が葬られた「大樹寺」(だいじゅじ:愛知県岡崎市)を警護するために連判状が作成されており、そこには三河国に在国する多くの松平一族が名を連ねています。この事実こそ松平親忠が晩年、惣領に準ずる立場にまで地位が向上していたことの証拠です。
なお、本来宗家である岩津松平家は、当主が三河国を長らく不在にしていたことや、駿河国(静岡県中部・北東部)を領する、「今川氏」(いまがわし)の侵攻を受けたことなどから衰退。松平親忠の一族・安祥松平家へ宗家の立場を譲ることになるのです。