「松平氏」(のちの徳川氏)の5代目当主に数えられ、「安祥松平家」(あんじょうまつだいらけ)の2代目当主でもある「松平長親」(まつだいらながちか)。たび重なる外敵の侵攻を阻んだ戦上手として知られ、主に「今川氏」を相手に奮闘しました。ところが、家督を譲ったのちに問題が続出。後継者に恵まれず、松平氏が傾くきっかけを作ってしまいました。松平長親の生涯をたどりながら松平氏の変転を紹介していきます。
「松平長親」(まつだいらながちか)は、4代目当主「松平親忠」(まつだいらちかただ)の三男として生まれました。
生年は諸説ありますが、1455年(康正元年)頃とされ、「松平長忠」(まつだいらながただ)という別名も存在します。
しかし、4代目当主というのはあくまで「実力上の当主」という意味合いが強く、実際は分家である「安祥松平家」(あんじょうまつだいらけ)の2代目当主。多くの功績から、宗家の「岩津松平家」(いわづまつだいらけ)を凌ぐようになり、やがて安祥松平家=松平宗家という認識を定着させたのです。
きっかけとなったのは、1508年(永正5年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)を治める「今川氏親」(いまがわうじちか)が、三河国(現在の愛知県東部)へ侵攻したとき。今川家の家臣であり、のちに「北条早雲」(ほうじょうそううん)の名で知られる「伊勢宗瑞」(いせそうずい)が約10,000の大軍を率い、「岩津城」(いわづじょう:愛知県岡崎市)へ襲いかかったのです。
このとき、宗家・岩津松平家の救援に駆け付けた松平長親は、わずか500の手勢で奮戦。見事、撃退に成功しました。しかし、敵は退けたものの岩津城は落城してしまい、岩津松平家は没落。以降は松平長親率いる安祥松平家が、実質的に松平宗家となりました。
そののち「大樹寺」(だいじゅじ:愛知県岡崎市)や「高月院」(こうげついん:愛知県豊田市)、「六所神社」(ろくしょじんじゃ:愛知県岡崎市)といった領内の寺社を積極的に整備し、人心掌握にも力を尽くしています。
松平長親は、早くから家督を嫡男「松平信忠」(まつだいらのぶただ)に譲っており、後見人として実権を握り続ける体制を敷いていました。ところが、この早期の家督相続が波乱を呼んでしまいます。あとを継いだ松平信忠が当主に不向きで、家臣の意見をほとんど無視。やがて一門郎党が反発し、なかば強制的に隠居させられてしまったのです。
これにより後継者問題が勃発。ひとまず家臣団の総意で、松平信忠の嫡男「松平清康」(まつだいらきよやす:徳川家康の祖父)が家督を継ぎましたが、松平長親は三男の「松平信定」(まつだいらのぶさだ)を偏愛。これにより松平信定を支持する家臣も現れてしまったのです。
問題が表面化したのは1535年(天文4年)、松平清康が家臣に暗殺されるという「森山崩れ」(もりやまくずれ)が起こったときでした。家督は松平清康の嫡男で、わずか10歳の「松平広忠」(まつだいらひろただ:徳川家康の父)が継ぎますが、このとき、松平信定が不穏な動きを開始。自らが当主になれなかったことへの不満から、松平広忠の所領を強奪した上に追放してしまったのです。
これにより松平家は混乱を極め、そこへ介入した「今川義元」(いまがわよしもと)によって、三河国は奪われてしまいます。しかもこの一連の騒動が起こった際、松平長親は何ら手を打たず、暴挙を黙認。つまり、松平氏が代々築いた領土を失った背景には、松平長親の親馬鹿ぶりが関係していたのです。
松平氏が没落していくなか、松平長親は天寿をまっとうし、亡くなったのは玄孫・徳川家康が誕生した翌年、1544年(天文13年)でした。徳川家康の幼名「竹千代」(たけちよ)も自ら命名したと言われています。
没後は松平氏の菩提寺である大樹寺に埋葬され、現在も墓が残っています。
戦場では無類の強さを発揮したものの、後継者選びに失敗したために評価の分かれる人物です。